2010年10月30日土曜日

手の甲。

夏の間床に転がした段ボール箱がお気に入りだった猫が、最近はベッドの上でよく寝ている。寒くなってきたのだな。
ベッドでぼけっと自分の手の甲を眺めると、なんだか細かい皺が縦横無尽に網のように走っている。
「なんだか年寄りの手みたいだ。」
以前年上女性に手を差し伸べたら
「なにあんたその白魚のような指は!」
と訳分からん理由で怒られたもんだったが、今見れば年相応に老化している。いいことだ。
The Byrds の5th Dimension をベッドに寝そべりながらかける。1966年特有のザラついたサイケ感が素敵。今かけているのはリマスター盤だが、初回購入したのはモコモコの音のアメリ カ盤だった。それは19の頃、渋谷のタワー・レコーズで買ったものだった。
渋谷のタワー・レコーズって1990年当時はまだひっそりと宇田川町にあったよな。浪人の頃飯代浮かしてCD漁ったもんだ。
たった20年前のことなのに、世の中は今よりももっと単純だった。
あ の頃から自分の頭の中身はあまり変わっていないが、まわりの世界は凄い勢いで複雑になって行く。オフィスのOA機器や家電は操作が複雑になる一 方だ。株式市場の光景は、当時と今では激変。無数の男達の怒号に似た叫びの光景も、今はPCスクリーンを眺める静かなものとなった。人が叫んで扱えるレベ ルを超えて複雑化してしまったのだろう。雪印も山一證券も第一勧業銀行も無くなった。見慣れないカタカナ名の会社が襟を立てた青年社長の得意気な顔ととも に現れては消える。ボクの働いていた会社は、インターネットの出現と共に仕事の中身が激変し、売上も落ち込んだ。
たった20年前のことなのに。もうきっと「単純」には戻れないのだろうな。
郷愁と言えば、それで片付くのかも知れないが。
しかし、その間、人間が複雑になったのかと言えば、そうは言えないだろう。
当時も今も男と女のセックスの中身は変わらない。愛の告白の台詞だって、使い古された流行のフレイズを昔から繰り返し再利用しているだけだ。
確実に言えることは、ボクの手の甲の皺が増えた。大学生の頃タバコで焦がした火傷の跡がまだ残っている。そして当時と同じロックのアルバムを聞いて、女の子の扱いは不器用なままだ。
それがいけないことなのかどうなのかは、実はよく分からない。
 

2010年10月28日木曜日

ロバ耳と結局セックスと女性作家。

王様の耳はロバの耳

そうは言えないから、その衝動を別の言葉に置き換える訳だ。

「天婦羅喰いたい。」
「いいお天気ですこと。おほほほほ。」
「わたしって、やっぱり奇麗よね。」

いろいろ言えることと言えないことがあるってことよ。全部赤裸々に言える訳じゃ無い。



ここんとこここに書こうと考えた話題。

「猫をレイプ。」
「セックスにおける男女差。」
「マザコンについて。」

「猫をレイプ。」については、実際に獣姦の話じゃ無いし、じゃあ爽やかな話題かと言うとそうでも無いし。なかなか正しい描写が困難で、かつ大きな誤解を与えかねんために断念。これは、この衝動を別のことに置き換えるとなんかのネタに使えそうだ。

「セックスにおける男女差。」こんなのさ、別においらが考え無くてもきっと誰かが考えて素敵な解決をはかっているよ、きっとどこかで。

「マザコンについて。」は、マザコンの定義が分からなくなったので却下。正式な心理学用語じゃ無いようで、幼児期のような保護被保護関係の成人母子の俗称なのかなぁ?考えるといまいちピンと来ない。

まぁそんな感じ。

セックスね。
若い性衝動の頃が過ぎると、なんだかこれは「孤独で無いこと」の確認作業のような気がするね。これはボクの現時点での結論。
人によっては「冒険」とか「探求」とか「スポーツ」とか、いろいろ定義出来るのかも知れませんけどね。
ボクは、「孤独で無いことの確認作業」。
なんだかいい人っぽくてヨクね?



することもないので、大っ嫌いな女性作家の小説を読んでいる。
その方のエッセイを目にすることが多く、読む度に嫌悪感を募らせていた。でも作家のことをその作品に触れる前に「嫌い」というのは失礼だと思い、古本屋で文庫を以前買ったんだ。14頁読んで、その時は反吐が出そうで放棄した。
まぁ暇つぶしに読み進めてみるよ。感想は後日。

「女というのはたいていそうであるが、自分の披露宴が終わった後の、女友だちの会話を想像して、相手を決定するところがある。」

まぁ例えば上のようなフレイズが出て来るのだが、事実かどうかは別として、こういうことを表現しちゃうところとか嫌いなんだよな。
実際のところどうなんだろう。結構時代要因が濃いフレイズのような気もするが。

しかし仮に自分が結婚して、妻の女友だちの披露宴後の会話を想像したら、萎えたよ。
ボクも一生結婚出来なさそうだw

2010年10月20日水曜日

ことばあそび。

あんまりいろいろと考えるのは好きでは無い。元々考えること向きの頭では無いのだな。「腹へったー」「ねむいー」「おっぱい」だけ言ってりゃ済むような国から出稼ぎに出てきただけなのだ、貧しくて。

さて。「嘘をつかずに人を欺く方法」。
例えば簡単な例として、真っすぐ道を進むと広大な森にぶちあたるとしよう。

「この道を真っすぐ行くと、森があります。」

これが比較的正しい表現だとする。ところが

「この道を真っすぐ行くと、木があります。」

こう言うと、全く嘘はついていないのに随分と印象が変わります。なんか誤解を与えますね。
玉子が嫌いなコウジ君のことを聞かれて、彼を好きな女の子に、

「彼は玉子が嫌いなんだよ。」

と言えばいいところを

「彼はゆで玉子が嫌いなんだよ。」

と言うと、彼女はコウジ君とのピクニックのお弁当に玉子焼きを持ってくるかもしれません。デート台無し。でもわたしは嘘ついてないもんね。
もちろんおバカさんが前者の表現を思いつかなくって後者の表現をすることもあるけどさ。意図的に後者の表現をするってのも、あるのだよ。

言葉ってのは使いようだよ。まぁこんなことばかりやってると地獄に堕ちるけどね。



以前 杉田かおる がテレビに出ていてさ。凄く派手なカッコウをした人のことを

「まるで詐欺師みたいじゃない。」

と言った。まわりの人達は、

「詐欺師がこんな派手なカッコウしていたら目立っちゃってしょうがないじゃないですか?」

と言うと、杉田嬢、

「詐欺師ってのは派手な服や派手な宝飾品をするもんなのよ。そうすると人の印象は服や宝飾品ばかりが残るじゃない。顔とかは覚えられないのよ。」

流石にこれはビビったね。巧み過ぎるし、それを知っている杉田嬢も凄いね。

だからさ。派手な奴らは何かを「隠して」いるのだよ、きっと。



うーん。人生経験が乏しくて書くことがなんにも無い。39年も生きていながら、昨日と今日と一昨日の順番を入れ替えても大差無い日々だ。それを文字化しているから、いつも同じことばかり書いているな。

  まるで僕らは何も見えない暗闇の中で声だけを頼りに
  お互いの指先を探り合っているみたいだった。

という出だしで恋愛小説でも書こうと思ったが、恋愛経験自体がほとんど無いのでそんなもの書けないことに気付いた。

「2001年宇宙の旅」が傑作になったのは、宇宙モノになんてなんの興味の無いキューブリックが撮ったからだ、とは偉い人たち皆言うことだよね。「宇宙モノが好きな奴が撮った宇宙モノ映画なんてみんな下らない」と言われるね、わたしは知りませんが。
「スター・ウォーズ」は、黒澤のチャンバラ映画を撮りたいというルーカスの執念だからな。だから一作以降はただの「スター・ウォーズ」の焼き増しになっていくんだろうな。



さて、たった今ツイッターで誰かが呟いた言葉がわたしを刺激した。
「子供向けのポルノ」だってさ。

・世の中には子供向けと大人向けがある。
・ポルノに子供向けは無い。
・ポルノは大人のものである。

こんなところが言外の前提条件としてあるのかな?じゃあその上で「子供向けポルノ」について考察してみようよ。

これはいいね。この言葉を転がして、またしばらくは遊べそうだ。
 

2010年10月17日日曜日

裏切り。

時間を潰す方法も分からないので、家にあった短編小説集を引っ張り出す。このタイトルは15年以上も前から家にあるのだが、読んだことは無い。ついでに言えば、俺が買った訳でもない。
小さ過ぎる活字を追う。それは子供の頃会った外国人の回想から始まって、大学生の時にバイト先で知り合った女子大生の話になる。

「彼女は駒込の兄と暮らしていた。彼女によれば、一緒に暮らしているというよりは彼女がそこに転がり込んだとのことだ。彼女は父親とソリが合わなかった。」

ふーん。親とソリが合わない、というのは一般的なことなのか。
親というのは、少なくとも半分はあなたの「元」となっている人なんだけれどもね。兄弟とまでなると、ほとんど同じ人と言えるくらい近い存在のはずだ、遺伝子学的には。

でも意外と親とか、兄弟とは理解し合えないものだな。不思議だよ。

俺自身について考えると、またこれが手に取るように父親と母親のダメなところが混在して自分の中にあるのが分かる。笑っちまうな。
結局、父も母も自分で解決し切れなかった問題を子供に押しつけたのだろう。
まぁただこれについては多分一般的なことだろうから、それについてどうこう言っても始まらない。親譲りの負の遺産を、解決すべく暮らすのみだ。
なんだか厄介な問題を抱えた「自分」というものとこれからも付合わねばならないことを考えると、妙におかしい。
逃れられない困難には、楽しむ姿勢で挑むことが大切だ。

俺のわきで猫が寝ている。耳の先を指で弾く。ぴんぴん。ぴんぴん。
猫は面倒臭そうに目を覚まし、俺の手の甲を舐めた。

絶対的な信頼関係。これは何もしないで与えられたものではない。不幸にも、世の中には猫と長年二人だけで過ごしても「信頼関係が壊れている」というケースはあるのだよ。何故かそれを知っている俺は、自分の薄っぺらい愛情を、それでも目一杯注いだつもりではある。
猫なんかに愛情を注いだところで、何の見返りも無いのだけれどもな。猫への愛は一方的なもの。

まぁそれでも奴が俺を裏切らないという安心感を得られたならば、それもいいだろうよ。

俺を、裏切らないでくれ。
英語にすると、Don't Let Me Down ってところかな。合ってる?

俺はおまえを裏切らない。おまえは俺を裏切らないでくれ。猫に対して与えられるものを、しかし人に対して与えるという方が難しいのは不思議。


なーんてね。
ジンとウオツカとラムが同時に切れた。火曜日の夜まで禁酒しよう。
今日はいい一日でしたか?良かったですね。あなたの幸せがわたしの幸せです。

2010年10月13日水曜日

好き。

働いていた頃の話だが。

別の部署の若い奴で、体力はあるしいつもヘラヘラと笑っているし明るくて前向きなのだが、どうにも使えない男、というのがいて。
仕事が絡まなければ「いい奴」で済むのだろうが、仕事が絡むと苛つくだけなんだよな。まぁ端的に言えば「バカ」なんだが。

で、ある日突然社内でその男が結婚する(できちゃったらしい)という話を聞いて、おいらが発した言葉は

「あいつは、隙があるからな。」

だった。明確に覚えている。
その時認識したのだが、おいらのなかでは

「女に現抜かすような男は、隙がある奴だ。」

という図式が無意識の中に構築されていた、ということだ。
ふーん。

まぁ確かに自分でいうのもなんだが、30代大半をおいら「隙無く」過ごしたような気がする。
一日中愚痴や暴言や上司と喧嘩なんかで過ごしていても、「結局あいつに任せとけばなんとかなる」と思われてたから、なにやっても許されていたんだろうな。
あんまり隙がない。

まぁーあ今現在は、隙だらけだよ。ってか吹き抜けだよ。風がビュービュー通り過ぎてるよ。まぁそれは置いといて。

世の中「だめんず」好きというのがいてだな。人は「欠けた部分」というものが魅力になったりするものなのだろうな。
女性がモデルみたいな体型を目指したりするのに対し、男が好きなのはほんのり脂肪がのって小ちゃかったりする子だったりする。

「あの子は、俺が守ってやらないとダメなんだ!」

あ、そう。

この傾向は、なんなのだろうね?
弱い者を、守る自分が好きなのか? 男:勇者願望? 女:母親願望?
もっと「整った」人を好きになればいいのにさ、なんであえて欠けてる「弱い」人を求めるのさ?
とすると、あんまり人に愛情を注がないおいらは実は「最弱者」に位置づくのかも知れないな。実は弱過ぎて「他者を守る」まで気が回らないのか。知らんが。

とか言ってもな。

おいら強い女の人は、好きだよ。強い女の人の弱点を見つけるのが楽しいじゃん。嫌な奴だねぇ、相変らず。あんまり弱みを見せない人程、抉りたくなるね。宝探しみたいなもんだ。
ああでもキャリア・ウーマン型のタイプは、突っ張ってるように見えて結構安易に弱みを見せるから嫌い。マジメなんだけど単純な人が多いように思うよ。影で泣いたりしてさ。
それとは別のタイプね。ふとした寂しげな目が好きだな。

ああ、そうすると小さな目の人は、それを見落としてしまいがちだから好きじゃ無いかも知れない。なんじゃそりゃ。

2010年10月6日水曜日

モノクローム。

free as a bird がリリースされたのは1995年の暮れのことだった。24歳だった。生まれて初めてきいた the beatles の「新曲」だった。

単調でゆったりとした8ビートの上に、膜がかかったようなジョンの声がきこえる。鼓膜をザラついたスライド・ギターが掻きむしる。眼前の光景の輪郭は、線がぼやけはじめ、色彩は失われていった。
「モノクロのサイケデリックだな。」
そう思った。

その年の夏デスクに座って新聞を読んでいたら、ジェリー・ガルシアの訃報がほんの小さく、隅っこに載っていた。グレイトフル・デッドのリーダー。思わず声を出したところ、女は
「デッドなんて知ってるの?」
と呟いた。女からすると、お堅い「サラリーマン」はデッドなんて聞くもんでは無いと思っていたらしい。
女はビートルズでは sun king が好きだと言った。ずいぶんと不思議な選択だと思った。

季節はかわり暮れになり、リリースされた free as a bird のシングル盤CDを
「クリスマス・プレゼントだよ。」
と言って女に渡す。もう山頂で雪崩は始まっていたので、落ちる以外に選択肢は無かったのだ。

その頃、俺は音程をとりながらロング・トーンで叫び、ディレイで声を反復することに成功していた。なかなかいい感じだと思った。バックではアコースティック・ギターとコンガが鳴っていた。ギターはバート・ヤンシュ風だ。
まだしばらく「未来」はありそうだ。時間は多くは残されて無いが、悲観的になる必要も無い。それまでに、も少しですべてが手に入るのではないか?と思った。


年月を経て、予定していた未来なんてものは、もうとっくに消化しちまった。
今まわりを見渡すとなにも無く、それは殺風景で、しかし free as a bird だけはまだそのまま残っている。プレイヤーにかけると、いつでもその頃と同じように「モノクロのサイケデリック」な光景が眼前に広がる。

居残るものと、過ぎ去るものがある。free as a bird は残った。それはよいことだ。そう思った。
 

2010年10月1日金曜日

ピンク・ジン。

アンゴスチュラ・ビターズを2振り。ジンを60ml。
パティ・ボイドの伝記を読んでいたら、彼女の祖母が好んで飲んでいたそうだ。
祖母の香りはピンク・ジン。

これは、悪魔の酒だな。堕ちたいときだけ作る。
頭の中は歪に回転し、心は内と外を入れ替えて、口から外に飛び出す。インサイド/アウト。胃粘液は黄色く、触れるものを溶かす。
サイケデリックの昆虫は皮膚下で腐肉を喰い荒らす。ウジ虫は蛹となって悪意の関節をもった羽虫となる。その羽音は、鼓膜を羽根で撫で回す。乳首で体側を撫で回す商売女が、男の絶頂を見届ける前に首元を噛み切る。
緑の血流は床でピンクに変色する。色盲の弟は、意味が分からないと首を振る。緑色の渦は回転する。ただ、その回転が時計回りなのか、その反対なのか、幾重にもなった渦は起点と終点を、それは持ち合わせているはずなのに、あたかも無かったかのように、ただ存在するのは回転しているということ。
回る。渦。色は、色彩は意味を無くして薄れていく。モノクロに近くなったところで、母に尋ねる。色とは?
「色の名前に意味は無い。」
名前によって規定されないものは、区別を持たない。アイデンティティを失ったその塊は、ただ気紛れに回転運動に参加するだけであった。


というところで、酔いが覚めた。ピンク・ジン、一杯目。