2010年11月30日火曜日

男と女を散らかしてみる。

なんだか突然ここのところ男と女の話ばかりだな。さて。


働いているとき、もう10年位前か、スタッフ引き連れて外仕事だったんだが、休憩時に皆で SPEED の話題になった。小中学生の女の子達で結成されたポップ・グループで爆発的人気を誇ったが、デビューから数年経ちその頃は落ち目だった。

「あの子達は、もう『女』になっちゃったから。」
そう女性スタッフは言い放った。
これを男が言っていたら(悪い意味で)あたり前感があったのだが、若くて奇麗めの女の人が吐き捨てるように言ったのが印象に残ったのだな。

「女になる」と「男になる」。
意外と言葉上はシンメトリーな配置のようで、実はまったく異なる現象なのでは?と今ふと思ったのだよ。
子供というものが「中性」的、ニュートラルな存在として、それに対する男と女というものの距離的配置が異なるのではないか。

女、というものは、子供時代の中性的な身体から成長により生理が始まり、胸が膨らむという大きな変化を経る。多分、生理用ナプキンやブラジャーといった外的なシンボルによっても自分が「女になる」ということに自覚的なのではないか。
そしてある時妊娠して出産し、乳が出ればもう否定も出来ない程に「女」を自覚するであろうよ。
胸が小さいことが自分の女性性の欠如ではないかと悩んだりしてね。そんなことあるかどうか知らないけど。

それに対して起る男の変化って、精通が始まる。声が低くなる。髭が濃くなる。これらって、女の変化と比べて、大したこと無くね?
別に幼少期からペニスは勃起するしさ。精通もティッシュ・ペーパーで処理出来るレベルで、生理用ナプキンだの生理痛で動けんだの、そんな大事じゃ無いんだな。
声が低くなって、「ああ俺ってダンディになったな。」とかあんまり思わないんじゃないの?一般的に。

女は中性である子供というイモムシから、劇的に身体/精神ともに女という蝶になるのだが、男は基本的にイモムシが巨大化するだけじゃない?

男が男として自己認識をするのは、「社会的な承認」が必要なのではないか。
洋の東西問わず、男には成人の儀式、「元服」とか「バンジージャンプ」とか、あるいは「徴兵」とかがあるが、女の人ってそういう「社会的な儀式」ってあんまり無いよね。男ってのは無理矢理そういった社会的要因で作り出されない限り出来ないものなんじゃないかね。

実家にいる女の子は「家事手伝いです。」と言えば「ああそう。」で済むところが、男だと「ん?ニート?」とネガティヴに捉えられるだろうよ。

男は結局、外に出て作られるものなのでは?と、ここんとこ引き蘢りのオッサンが偉そうに20分程で考えてみた。
女はフィジカルなもので、男はコンセプトなのかも知れんな。
賛同が得られるかどうかは分からんが。

しかしだりーな。

2010年11月27日土曜日

TAXMAN 。

ビートルズのメンバーで最初に出会っていたのはポールとジョージだ。
ポールが中学の授業をサボってタバコを吸いにいったら、そこで先にタバコ吸ってたのがジョージだったとのこと。ウマがあったのか、二人でヒッチハイクの旅とかして遊んでたらしいよ。
ビートルズの中で音楽を介在にしないで知り合ったのはこの二人だけだね。

ポールが歳上のジョンのバンドに入った後、ジョンに「友達にギタリストがいるんだ。」といって紹介したのがジョージ。でもジョンは乗り気じゃなかった。ただでさえ歳下のポールを入れたのに、さらに歳下のヤツが入るなんてさ。ティーン・エイジャの頃の年齢差は大きい。
まぁ結局ジョージも入って、ジョン、ポール、ジョージの3人組が出来る訳だが。
ジョンのアート・スクールの親友ステュを巻き込んで(ステュはベースなんて弾けなかったんだが)、出入りしてたクラブのオーナーの息子、ピートをドラムにしてビートルズの原型が出来る訳だ。ハンブルグ巡業で海の男達を相手に修行。

ステュが抜け(直後に死亡)ポールがベースにまわり、ホモのユダヤ人ブライアンがマネージャーに名乗りを上げてから精力的にデビュー作戦に出る。
なかなか困難だったが、しばらくしてなんとかEMI系列と契約が取れる。
そのタイミングでピートをクビにして、同郷のリンゴ・スターを迎え入れる訳だ。
1962年。

未だにピートをクビにした理由は分からんのだがね。
定説では「ドラムが下手だったから」なのだが、別にポール以外はリンゴも含めみんな楽器下手だからな。それに誰もビートルズの演奏能力なんて気にして無かったってさ。
ただ、ピートからリンゴに変わってグルーヴが変わったのは確かだな。パンキッシュになった。ピートってズッタタ ズッタってノリなんだよね。リンゴってダタタ ダタタ ダタタ ダタタなんだな。

1970年に解散。
なんで解散したのか。そりゃナンセンスな質問だよ。「オトナになった」んだよ。
そんだけだろ?
よくジョンとポールの不仲みたいに言われるけど、メンバー間で一番冷えきってたのはポールとジョージじゃないかね?しかもかなり早い段階で。

TAXMAN 。ジョージの曲。
ジョンとポールはソング・ライティング・チームだったのだが、ジョージはひとりでやらにゃならんかった。
1966年のある日、ジョージからの電話を受けて、ジョンはマイッタな、と思ったらしい。曲を書くのを手伝ってくれだとさ。
「でもジョージはポールに頼む訳にもいかないだろうから、俺が引き取るしかなかった。」

TAXMAN はジョージの曲で唯一アルバムのオープニング・ナンバーとなった曲。
コンプの利いた中で気怠いカウントから始まる。
ジョンのギザギザのギター・カッティング。
小刻みに空間を切り分けるリンゴのスネアのフレイズ。
ポールはこの曲で神懸かったベースと、リード・ギターを弾く。
そう、ポールの演奏は神懸かって、一体ギタリストのジョージはこの曲でなんの楽器を弾いたんだろう?
ジョージもこの曲のポールのギター・ソロはお気に入りみたいだよ。ジョージのギタリストとしての必然性は、マルチ・トラック・レコーディングの技術進化によって薄くなっていくのだがね。ポールがギターも弾くから。

先日、iTunes でビートルズの曲のダウン・ロードが始まったそうだ。
初動一週間の、最も売れた曲は Here Comes The Sun だったとのこと。
ポールの曲でも無く、ジョンの曲でも無く。
これは1969年にジョージがアップルの仕事をサボって、エリック・クラプトンの庭で作った曲。

 Little darling, I feel that ice is slowly melting
 Little darling, it seems like years since it's been clear
 Here comes the sun
 Here comes the sun and I say
 It's alright

ジョージが生きていたら、この結果をどう思ったんだろう?
なんとなく、よかったね、ジョージ。と言ってみる。

2010年11月23日火曜日

天気がいいね。

ネット上で7年くらい前かな?知り合った女の子が突然結婚したとのこと。実際に会ったことは3回くらいだと思う。
知り合った頃は明かに駄目な男に入れ込んでいたので、それを知っているおいらとしてはいい人と結ばれてくれて嬉しい限りだよ。

人はみんなそれぞれ違う暮らしをしているからな。なんとなく勝手に「自分が生きなかった暮らし」を他の人がしてくれているように思えて楽しいね。
本来経験していていいはずの多くを経験しないで暮らしている気がするな。
薄い。薄い気がする。向こう側が透けて見えるんじゃないかと思えるくらい薄い。仕方無い。「軽薄」が自分であれば、それを肯定的に捉えるしか無い。

人のいろんな話や考え方を聞くのはいいことだ。擬似的に脳内追体験をさせてもらってます。
あと何年間生きられて、どんな体験が実際に出来るのか。そんなのは限られてるでしょー。
君の話を聞かせてよ。それはいつでも楽しいよ。

2010年11月20日土曜日

ラビット。

David Bowie と 中村うさぎ で日々を潰している。

中村うさぎという人はだな。もろに経験主義者で、結構自分をとんでもない状態においてそこから何が見えたか?というのを考察し読者にバカバカしく伝えてくれるので面白いのだよ。

  買い物依存/ホスト狂い/整形狂い/デリヘル嬢体験

などを通して、自分は何が欲しかったのか、そして何を得たのかということを伝えてくれるのだな。それらの体験を通して自分とは何かを確認してるのね。

ただ、もし読むなら一話の尺の短いエッセイ集のようなものを勧めるね。尺が与えられるとクドクドと面倒臭いトーンで書き連ねる癖があって。多分実際に会ったら、面倒臭そうだ。

彼女の遊び場は二丁目で、友人の多くはゲイ。ちなみに旦那はゲイだし、マツコ・デラックスを世に出したのも彼女ね。
で、彼女はノンケの男を前にすると妙に構えてしまうらしい。強烈な男性嫌悪があって、随分と過剰に男というものがヒドいものかというのを語り、それに対する自身の女性性みたいなものを追及しているのだな。

それが過剰にいって、自分の「女」という部分にまだ商品価値はあるのか、と疑問を持ってデリヘル勤めをしてしまうとかね。
友人男性に「客に肉便器のように扱われることになる」と忠告されたものの、実際に体験すると「客は自分を人間として大切に扱ってくれて」「それ以外の男達は自分をとても蔑み性的に侮辱するような態度を取るようになった」とのことだ。

なんだかヤな話だな。

でも結構時代も変わって、彼女の嫌う男性性みたいなのも若い人達の間では薄れて来ているのではないのかな。

おいらゲイでも女装家でも無いのだが、あんまりその手の「男臭さ」みたいなものに関心が薄い。
とか書きながら、実はそういう部分が薄い「フリ」をしているだけなのでは?なんて思考を反芻してみたりもする。基本的に「オンナ大好き」だしな。

あんまり既存のルールでは巧くボールを扱えないから、自分のルールの中でひとりで暮らしているのかも知れん。
そうすると、他所の女の子が入ってくることも無くなる、と。
道理でモテない訳だ。

といつもの結論で終わる。

2010年11月18日木曜日

こどもはもらっちゃってもいい。

なんだかもういろいろ麻痺しちまったよ。

さて。西原理恵子の漫画の中で、鴨ちゃん(元夫:故人)がサイバラさんに
「こどもってさー、もっと簡単にもらっちゃってもいいんだよなー。」
と言っていた。養子の話ね。世界中の孤児を、引き取って育ててもいいんじゃないかって話。
なんか、欧米のセレブが各国の孤児かなんかをぽこぽこ養子にしている話も聞くね。ちょっとケースが違うが、MJ の子供って、実際血縁はあるのか?

養子って、いまいちピンと来ないんだよな。「コインロッカー・ベイビーズ」は養子の兄弟の話だよな、村上龍。その中でくらいでしか知らない。コインロッカー・ベイビーズは、折角養父母が育てるのに、二人とも出てっちゃうんじゃなかったかな?

んでさ。自分と血縁の無い「子供」を、「子供」として愛せるのだろうか?
とか思ってみたのだが。
しかしさ。「親戚」って概念もさ。「伯父の嫁」とか「義弟」とかって、今気付くとおいらと血縁無いよね。でも親戚だよね。
「親戚」って、血縁を中心としてはいるけれど、実際は「家」の縁の集合体なんだな。

そうか。「家」なんだ。おいらずっと「血縁」を大切にしているつもりでいたが、実は血なんかじゃ無くて「家」に執着していたのかも知れないな。
(普段「家」なんてどうでもいいようなこと言ってるくせしてな。)
そうすると「家族」って、血縁が絶対的に必要なものだろうか。少なくとも配偶者とは血縁無いしさ。そうすると別に子供と血縁なんて、無くてもいいのかね。
うちの「娘」のルビィちゃんなんて、血縁どころか人間ですらないからな。猫だから。
「血」を中心に考えるのなら、最も血の関係が近い「妹」なんて、おいらからしたら「宇宙人」みたいな存在。理解の範疇を超え過ぎていて。なんだかそうすると
血って、どの程度意味があるのかね。

ふーん。鴨ちゃんの意見も、今なんとなく賛同する要素を見つけたよ。


まぁおいらが養子をもらうことは無いだろうけれど。先に嫁探せ。

2010年11月16日火曜日

B&G 。

幼子を抱える、とある母親が
「息子は男の子の遊び、娘は女の子の遊びを自然に選択している」
ようなことを言っていた。

よく性同一性障害の方が、
「気付くと女の子のような格好や遊びに興味を持っていた」
と戸籍の性と逆のことをするようなことを言っているのを聞く。

そうすると、男性的とか女性的ってのは本能的なものなのかい?
例えば男女含む新生児を、すべて男性か女性の片方の大人だけに接触させて成長させると、どちらかの性に偏った人格になるってことはないのかな?後天的影響で。

こういうの、ジェンダーっていうのかね。あんま詳しく無いんだが。
おいらゲイでもオカマでも女装家でも無いんだが、あんまり社会的な男性的役割というものに対して関心が無いのだな。面倒臭い。


非常に、人格が「先天的」なのか「後天的」なのかに興味がある。
多分、これは一生考え続けるだろうな。答えは見つからないのだろうが。
「自分」というものが、産まれ落ちる前から決まっていたのか、環境によって作られたのか。
(いや、両方から影響受けてるのは当然だけどさ。偏りがあるのかってことよ。)
結構ね、この問題がおいらの中で大きな領域を占めてるのよ。告白するとね。
何故かまでは言わんが。

まぁでもこういうことを延々と考えていると、副産物としていろいろ産まれるからいいよ。思考を拡散するのが得意なのだな。
拡散された末端は、根っこからかけ離れていて、それはそれでちょっと複雑なフリをするにはね、便利だよ。ふーん。


【追:性差が先天か後天か、ということの研究について記述あり】
http://jack4afric.exblog.jp/14592601
 

BoB 。

たいしたこた書かない。さらっとね。ほんとだよ。

なにを思ったか、昨日 Bob Dylan をきこうと思って、いや正確には Like A Rolling Stone をききたくなって、CDラックを漁り、その曲収録の Highway61 Revisited を取り出せばいいものの、横の Blonde on Blonde を取り出してしまった。

Highway61 Revisited 1965年
Blonde on Blonde  1966年

それぞれ彼の6枚目と7枚目のアルバム。両作とも Dylan の全盛期の作品という世評ね。両作とも大傑作扱い。
この前の5枚目のアルバム、Bring It All Back Home から「フォークのプリンス」だった彼が「ロック」をやり出したんで、大騒ぎになってたところ。
当時はフォークは「良識のある若者」のため、ロックは「コドモのお楽しみ」みたいな意識が聴衆にあって、トンデモナイ事件として扱われたんだよ。


ボクさ。どうも Blonde on Blonde が苦手でね。というか、Highway61 が好き過ぎて、その姿を追ってしまうのだな。
Highway61 は、もの凄いテンションで辛辣でグロテスクな言葉をまき散らしながらバック・バンドと共に疾走する感があって。この頃の写真のサングラスとモッズ・スーツの彼が最も尖った頃だと思うのね。
かつて驕っていた、そして今落ちぶれた女に対し、

 アンタはもう透明な存在で
 隠すべき秘密もありゃしない
 どんな気分だい?
 家がどこなのか分からないってのは?
 誰にも知られてないってのは?
 転がる石みたいだってのは?

なんて言葉を投げつけるサマがさ。破壊的だよ。暴力的だよ。

で、次作じゃないですか。Blonde on Blonde 。
なんだか怠いんだよな。そんなにテンション高く無いんだ。演奏が。ミクスも、ちょっとヴォーカルが浮いてるように聞こえる、ボクの耳には。
ボクは英語が聞き取れないので、歌詞もあまり分からないんだけれどもね。

Rainy Day Women #12 & 35
Just Like A Woman

の2曲は好きだな。
アルバム冒頭の「雨の日の女」は、欧州の猥雑な旅芸人の移動みたいな雰囲気が素敵。「皆、石打たれるべきだ。 = 皆、ラリるべきだ。」って歌詞もなんだかわけ分かんなくていい。

「女の如く」は、

 彼女はまるで「女」みたいにとらえる
 彼女はまるで「女」みたいに股をひろげる
 彼女はまるで「女」みたいに痛みを感じる
 でも、まるで「少女」みたいに泣き出すんだよ

って歌詞がいいね。でもこれは「曲」が好きなんであって、このアルバム・テイクが好きな訳じゃ無いな。ライヴ版でもっと好きなテイクがある。

ってな訳で、Blonde on Blonde の魅力が分かりません。
人から説明されても分からないんだろうけどな。誰か教えてよ。

ん? オチ?結論? だからたいしたこと書かないって言ったじゃん。
 

2010年11月7日日曜日

ミセス・ロビンソン。

ダスティン・ホフマンが好き。あの過剰な演技が。

でも俳優で一番好きなのは、マルチェロ・マストロヤンニだけどね。もしボクに嫁がいて、彼女がマストロヤンニと一晩過ごすことがあったなら
「よくやった!」
と言ってワクワクしながらマストロヤンニとの一夜のことを聞き出すだろう。彼はどんな風に妻を口説き、どんな食事に誘い、ベッドの上ではどんなだったのか?
もう、それはワクワクするよ。どんな極上の映画よりも魅惑的だろう。

で、なんだっけ? ダスティン・ホフマンか。
「マラソンマン」とか「パピヨン」とか。「トッツィー」「レインマン」ね。
「クレイマー、クレイマー」は観てない。「真夜中のカーボーイ」は、あらすじを眺めると観たような気がするんだけど、観た確信が持てない。若い頃ミァ・ファーロウと出てるのも観たな。

まぁでも彼の出世作は「卒業」(1967年)だよねぇ。
ボク、これ好きなんだよ。人によってどう解釈するのか分からないけれど、ボクはこの映画の「救いようの無い」ところが好き。


【あらすじ:ネタバレだよ】
大学を優秀な成績で卒業して実家に帰省していたベン。彼の卒業を祝うパーティーが自宅で催されるが、彼はなにか「虚無感」に取り憑かれている。
同時期に帰省していた近所のエレーンとのデートを勧められ、そのまま気乗りのしないデートをするが、やはり満たされない。
ところがある日、エレーンの母であるミセス・ロビンソンに誘われ、そのまま人妻と情事を重ねてしまう。
ミセス・ロビンソンとの関係がばれ、すべてを失うベン。学生生活に戻ったエレーンを追って彼女の住む街に行くが、当然相手にされない。ふたりの誤解は解けないままだった。
ある日ベンはエレーンが学校をやめ、男と結婚をすることを知る。
結婚式当日、ようやく教会に辿り着いた彼は、教会の扉を開け放ちエレーンの名を叫ぶ。ベンに駆け寄るエレーン。花嫁を奪い取ったベンは、そのままエレーンと共にバスに乗り込むのであった。



これ一見ハッピー・エンドなんだけどさ。どうみてもボクには救いようの無い話に思えるんだよな。

・理由無き虚無感(-10)
・約束されていた将来を棒に振る(-10)
・家族/近隣の人々との信頼関係(-10)
・エレーン(-10)

マイナス、40点。 最後にエレーンを奪い取って、マイナス10点分は取り戻した。でもさ。大半の他のマイナスは残ったままじゃね?
なんかひとつのことをやり遂げた充実感で満たされた気分になっているだけで、実は根本的なことの解決はなにもされていないでしょう。

なんだかそんな「救いようの無い」感じが、ボクは好きなんだよな。
幸福そうなエンディングが、とても怖い皮肉に思える。


音楽は、サイモン&ガーファンクル。
映画用に作った短いフレイズを後に発展的に展開してシングルにした曲が
「ミセス・ロビンソン」。1968年のグラミー賞受賞曲。
彼女に対して、幾分皮肉めいた口調で語りかける男の台詞。

詞中に、ジョー・ディマジオが出てくる。ニューヨーク・ヤンキースの、走攻守揃ったスーパー・スター。
歌は、既に1951年に引退した彼の影を今でも追うミセス・ロビンソンを皮肉る。

グラウンドの外でも紳士として知られたディマジオは、1954年にマリリン・モンローと結婚。しかし本来スーパー・スターであるはずの彼が、妻と いると妻ばかりが取りざたされる状況に嫉妬したのか9ヶ月で結婚生活が破綻。人格者であっても、そのプライドが許さなかったのだろう。
モンローの死後ディマジオは彼女の葬儀を取り仕切り、生涯に渡って週に2回彼女の墓前にアメリカン・ビューティ(薔薇)を捧げたという。

ディマジオが1999年に亡くなると、ヤンキー・スタジアムのグラウンドにポール・サイモンは立ち、彼のためにミセス・ロビンソンを歌い捧げた。 


http://www.youtube.com/watch?v=DRlRlS7uZDw