2011年2月23日水曜日

緑の中を走り抜けてく。

新しい会社の極近隣にはあまり店が無く、飲食店の林立するエリアへはほんの少し歩かねばならない。20時過ぎに夕飯を喰わんとふらっと出掛けると、先にオレンジ色の看板が見える。吉野家だよ。
無職の頃はほとんど自炊していたのだが、それでもたまに「松屋」に行っていた。安く腹が満たせるから。

(前職時代)仕事をしながら、業界の商品価値が「速く安く」でしか求められなくなって行く現状に嫌気が差していたのだが。自分がプライドをもって行う仕事が素人臭い「速くて安い」仕事に市場を奪われることに静かな怒りを感じたものだった。
しかし矛盾する思いで牛丼を眺めるのだな。安けりゃ、安いだけいい。しかしこれだけ安くなると、牛丼を作る人はなににプライドを感じて供するのだ ろう。「安く満足して頂けること」に感じるのだろうか。そうであるならば、おいらも随分と器の小さな人間だ。あんたを満足させるよ。でも、金はもらうよ。

吉野家の「牛鍋丼」。初めて喰った。280円。結局、玉葱と牛肉の牛丼に比べ大量のシラタキでコストダウンを図った訳だ。甘めの味はいいんだが、おいらシラタキそんな好きじゃ無いのね。金に瀕しない限りはリピートしないだろう。
サラダを付けて、370円也。昨晩の一人酒の17分の1の値段。なんて安く夕食が摂れるのでしょうか。感謝します吉野家様。あなたのおかげでまた酒が飲めます。

店を出て、寒々とした空の下、ポケットに手を突っ込んだ中年男は歩道を猫背に急ぎ足で仕事に戻ります。後ろから、足音。音が軽い。これは女だ。
振り返ると、髪の長い少し品の良さげな若い女が急ぎ足で後ろを歩いています。
眼前の歩道脇には停めてあるシルバーのポルシェ。運転席には若い男。
女は車道に降りて少しすました顔をして周りを確認し、ふとポルシェの右扉を開けます。おいらが猫背のままクルマの切れ目を見つけて車道を横切ろうとするところ、シルバーのポルシェは目の前を過ぎて行きました。
シルバーのポルシェは、女を助手席に乗せて皇居の方向へと抜けて行きました。
おいらは牛鍋丼で腹を満たしてもう一仕事です。おいらには若い女もポルシェもありませんが、なにものにも代えられない「ひねくれた自分」というキャラクターを持って全力逃走中です。
 

2011年2月13日日曜日

チョコレイト・ディスコ。

朝からチョコレイト・ディスコのサビがぐるぐる頭の中を廻っていた。
昼過ぎに突然メロディを忘れてしまって、それからというもの壊れて同じところを繰り返すレコードのように続きに到達できない。ぐるぐるだけが頭の中で廻っている。

土曜日の朝、新幹線に乗り田舎に帰る。母方の伯父の納骨式に参列するためだ。他にもいろいろ実家に用事もあったので、よい機会だ。
東京も寒かっただろうが、静岡も、それはもう思考すらが凍結せんばかりに寒かった。午前の墓前礼拝(その家だけが敬虔なクリスチャン一家なのだ)、墓地の冷え込みは想像以上だった。賛美歌を歌い、聖書の一節を説法として聞く。
伯父の死から一年も経つのだが、伯母はひとり涙を落としていた。夫婦というのは、そういうものか。おいらには「夫婦」の経験が無いので分からない。

昼の会食を経て、父母おいらの三人は母方の親戚連中とは別れる。
「母方の伯父の納骨」が目的で帰ったのだが、父方の祖母がそろそろ危ない、と数日前に話があったのだ。

祖母。96歳。ドキュメンタリー映画にもなって、ちょいと静岡では知る人もいる人なのだが。100まで生きると思ったのだがね。
祖母と父の長兄夫妻の住む家にいくと、祖母は眠っていた。ベッドの中で、どこにいるのか分からないくらい小さくなっていた。
火曜日に店に行き(亡くなった祖父が興した店があるのだ)、その二階から、降りられなくなった。階段を降りられなくなった。
多分、それが切っ掛けで気が塞ぎ込んだのだろうという。なにもしなくなって、食事も摂らず眠っている。
別に身体の悪いところなど、無いのだ。ただ、人間が、しおれている。夏草が、秋も深まり、別に虫に喰われるでも無く立ち枯れる、そういう様である。

途中で目を覚ましたようではあるのだが、でももう、なにをするでもなくしおれている。なにもしないがまま頭を垂れる。
伯父も、もう病院などには入れないと言う。医者とは阿吽の呼吸、なにもしないでくれと伝えている。

いい人生だ。理想的だな。人が亡くなる時、それが妙に「悔しく」感じることがあるものだが、祖母の場合は、一言「よい人生でした」と言えるのではないか。
あまり悔しい思いは、誰も残らないと思う。

チョコレイト・ディスコ チョコレイト・ディスコ チョコレイト・ディスコ
チョコレイト。ディ/ス/コ。
突然、いまメロディを思いだした。ああ、スッキリしたぜ。

http://www.youtube.com/watch?v=5JjV71fWq_s

2011年2月11日金曜日

奇子。

自分が若ければ「如何に生きるのか」というのが課題かも知れんが。
四十ともなれば「如何に自分に始末をつけるか」という事ばかり考える。
あとしまつ、という奴だ。


手塚治虫の「奇子」という作品がちょいと Twitter上で話題にのぼったので、即Amazonで発注してしまった。
「裏」手塚治虫の代表作とのことだ。「読後感が悪い」とか、「グロい」とかいう評価らしい。
でもな、10歳くらいで「アトムの最後」を読んで暗澹たる気持ちになった身としては、手塚治虫に裏も表も無いな。
ガキの頃「アドルフに告ぐ」をお袋がハードカヴァで買って(すぐ古本屋に出したようだが)、手塚氏がいわゆるお子ちゃま向け作家では無いことは分かっている。

読み終えて、特にグロさは感じなかった。感じ入る部分もあまり無かった。ただ壮大なストーリーが描かれている点について、よくもこのようなフィクションが作られるものだ。とひとり感心する。
これに「グロさ」や「悪い読後感」が残らないというのは、もうそういった感情に塗れ過ぎて麻痺しているのだろうか。と自分を心配してみる。


糞田舎の大地主一族が戦後の農地解放で没落していく過程を25年ほどのスパンで描いているのだが、一族すべてが狂っていて、その報いですべてが終わる。
主人公は明確では無く、群像として一族のそれぞれの生き方が語らている。それぞれの狂った生き方がね。
そういう意味ではなぜ末娘の「奇子」がタイトルなのだろう?
ああ、でも一族の狂ったものの集積所みたいな機能を果たしているのは奇子だな。誰も彼も狂っているのだが、そのバラバラの狂気は、扇の要のように末娘で繋がっている。

四半世紀にもわたる壮大なストーリー、濃厚な接点の者、希薄な接点な者、それぞれ同じ家族が自分の人生を過ごした後、最後の最後に再集合。すべてが終わる。
最後にひとり生き残った無垢な婆さんが、「家」のことを

「わしさえたっしゃなら、潰しはしねだ。」

といって終わるところがそうなんだよね。女というか、婆さんというか、「家」というものを強く意識している人間というか。
大きな波が四方から打ち寄せても、何も言わず、じっと動かず耐えていた者が、結構最後まで生き延びるものかも知れない。達観しているのだろうかね。

それならおいらは即殺される役どころだな。動きまわって、騒ぎ立てて、早死にだ。


ああ、なんだかとりとめもなく書いて終わる。