2011年3月31日木曜日

ロビン。/おいがなう。/駅。

軽い話でも。



ここのところ、朝8時40分過ぎくらいに山手線の駅に到着する。駅を歩くと、陽の光が窓から差し込み、その陰となるところは穏やかな灰色となってひんやりとした表情を見せる。
意外とこの灰色が心地良い。節電で駅の照明の数を大きく減らしているのだ。

ある時期まで、「明るさ」というのは富の象徴だったのだと思う。夜の薄暗い部屋は貧乏臭い。そう感じる人も多いのだろうね。
おいらは基本的に夜は60wのレフランプ一つで暮らしているので、逆に明るい部屋はキツい。見たく無いものまで見なくてもいいじゃない。そんなに明るくして自分の富を誇りたいのかね?

東京の街は、めっきり暗くなった。看板も、店内照明も落としてひっそりと営業しているね。でも、必要に満たないかというと、そうでも無いんじゃない?
なんで必要を超える光が欲しかったのかね? 明るく無いと怖かったのかね?



花粉症の季節ですね。幸いおいらまったく関係無いですが。

さて。なんだかさ。冬、から春にかけてみんなマスクしてない?日本人って。
電車なんか乗ると半分以上の人がマスクしてたりしてさ。
確かに花粉症のオッサンがくしゃみ20連発とかを電車の中でやったりすると
「おいおい、仕方無いのは分かるからさ、マスクくらいしてよ。」
とは思う。

でも、それにしてもこの日本人のマスク大好き具合は異常じゃないかね?よその国じゃ有り得ないよ。(多分、想像だけど。)
と給食当番の時以来ほとんどマスクをしたことの無いややさんは申しております。

怖いんだよ、目だけの人に囲まれて電車乗んの。宗教?



おいらね、第二次ベビーブーマーね。
多分さ、大昔から「若さ」というものに対して人々はある価値を見出していたのだと思う。実際は知らない。大昔の人じゃないから。

でもさ、昨今ほど「若さ」に価値がおかれる時代というのがあったのだろうか?
以降は完全な想像の話だけどさ。

第二次世界大戦後、1950年の前後5年くらいの間、米国、欧州、日本、オセアニアでベビーブームが起る。実際問題戦中の人達とも価値観が違うし、数的にも彼等がマジョリティになる訳だ。うちのオヤジも1947年生まれだからな。ベビーブーマーだよ。
マーケットは最大市場に合わせて商品が作られる訳だし、彼等に訴求するイメージ戦略ってのが必要となる。金もあったしね。

すると、1970年前後ってのは「多数決」の結果としても最も「若さ」が力のあった時代さ。「若さ」が絶対だったさ。
その頃の価値観というのはそれ以前の価値観と大きな断絶があったから、揺り戻しにあうことなく「若さ」の時代は続く。バブル景気もあったし。
1990年代は第二次ベビームーマーが若者だった。四半世紀近く「若もの」の時代だった。

がね。第一次ベビーブーマーももう60歳過ぎてんだよ。第二次ベビームーマーもね、もう40だよ。
若くネェんだよ。数的な主力は「老い」なんだよ。

ってことは、マーケットも「老い」を無視出来んだろう。
これからは「老いがナウ。」な時代に突入するんだよ。
「老人ファッションがトレンド」な訳だよ。
老人天国だよ。

「老い」が絶対的な価値観の時代が来るね、これは。



ああごめん、三本ともオチ無し。 垂れ流し。
 

2011年3月28日月曜日

だらだら暇つぶし。


mixi に書いたうちの、どれくらいかを抜粋してここにアップしている。内容はね、まったく同じ。ダイレクトにリンクはさせていないので、コピーして貼っている。
だから mixi に来てくれる人にはほぼ意味が無いページなのだ。

ここはね、ある人のブログの読者になるためにアカウントをとったので、勿体無いから作ったブログなんだがね。基本的に誰かが来るこた期待していない。だからポツポツ誰かが読んだって跡が残る程度なんだけどさ。

今月「飯島愛」について書いたページの読まれた跡が普段の十倍くらいになっていて、ビビった。
一体どこから飛んできて読まれんのかね。
世の中変な風に繋がっているものなのだねえ。



前の会社も年代構成が歪だなぁなんて思っていたのだが、新しい会社は平均年齢が29歳だってよ。新入社員のおいらが、上から数えて5、6番目の年寄りだ。

最近、いろいろ社内の統計ソフトだのエクセル・マクロだの教わってんだけどさ。教えてくれる女の子はおいらの15歳年下なんだよな。
15歳年下っていや、おいらが二十歳で大学生で阿呆面してた頃は幼稚園児だったんだよな。歳とるって怖いねー。
そんな子が立派に社会人になって、オッサンにPC教えてる訳だ。
そりゃオッサン要らなくなるわ。

自分の存在理由について考えてしまうよ。正直言ってね。見つかんねー。
「あなたは、そこにいてくれるだけでいいのよ。」
とか飼い猫のように言われたいね。無理だね。



恋してますか?ってかさ。もう自分に存在理由が見つからないので誰か女の子にでも執着しないとさ。
面接にでも行きましょうか。

「で、あなたのウリはなんなわけ?」
「当(者)の希望理由を述べて下さい。」
「あたしと付合って、したいことはなんですか?」
「あたしと付合うことで得られる、あたしのメリットを述べて下さい。」

特になにも思い浮かばないねぇ。
そう考えると、世にいるカップルのみなさまは、みんな立派だねぇ。

せめて(自分が)好きな女の子くらい欲しいもんだ。
これが意外といないんだよね。なに贅沢こいてんだろうね。
秋口に僕をふった女の子は元気かね。別にふられた訳でも無いか。
 

2011年3月26日土曜日

すみれ。


おいらは多分嘘が少ない方の人間だと思う。ただ嘘が少ないからといってもすべて正直に語っているかと言うと、そうでも無い。嘘はつかなくても、発信する情報を取捨選択すれば印象の操作は可能な訳である。

ここのところある程度正直な他者批判のようなことを書こうと思っていたのだが、止めた。基本的に好きなものが少なく嫌いなものが多い人なので、他のものに対する悪口なんて言い出したら止まらないのだよ。 例えばおいらはシー・シェパードが心底嫌いなのだが、もし彼等を嫌いであるという理由をあけすけに語ったのならば、世界の半数の人を敵に回すことになりそうなので理由までは語ることは無い。

「あんたいつも自分のことばかり書いてるね。どんだけ自分好きだよ。」 という話もあるのだが、他者批判のようなネタを書かないで無難な話題に絞れば自分のことくらいしか書くことが残らなくなるのだ。

ある種の処世術だな。あいつは鏡ばかりみて過ごしている、と思って頂ければ。鏡に映った後ろの景色を眺めているのは秘密のあっこちゃんだ。




さて。等々力渓谷に行って来た。 「渓谷」という言葉に期待値を大きくし過ぎていた。もし等々力「遊歩道」だったら、なかなかいい感じのところだったよ。

途中庭園の木の根元で見つけた、ほんのほんの小さなすみれの花。
とても小さい。それでも奇麗だよ。

2011年3月22日火曜日

置き忘れ。

とりとめも無く。
と前の奴を書き始めたのだが、日記で完結してしまった。とりとめも無く、いろいろ。まとまりを欠いてみよう。


インターネットでジョン・レノンの死の二日前のスナップ写真というのが出てきたので、ボケッと眺める。1980年。
死の数時間前のフォトセッションなんてのもあるので時間軸では貴重でも無いのだが、ふとした瞬間を捉える素の写真ってのはそれはそれで。
随分と痩せてたんだな、この頃は。ダブル・ファンタジーの頃はマッシュルーム・カットみたいな長めの髪だったのが、この時は後ろだけ残して短めだ。ジャンボ・カットか?

触発されて家にあるビートルズ解散後唯一のジョンとポールの2ショット写真を眺める。これもつまらんスナップ写真だが。1974年。
メイ・パンが撮影したのだと思うが、まさかこんな写真が貴重なものになろうとはね。
生きてる間はみんな人生は永遠だと勘違いして過ごしがちだ。


ある程度ここに書いているのは文章の流れとかキャラ設定とかが関係するので、すべてダイレクトに本心を書いている訳でも無いのだが。
でも数日前に書いた地震の最中「僕は誰を守るのだろう?」と思って誰も思い浮かばなかったというのはホント。

これってヤバくね?
多分、コドモとかいる人はコドモの顔とか浮かぶんだろうな。若い恋人達は互いの顔を浮かべるんだろうかね? 地震の直後、結構みんな関係者に電話なりなんなりしていたのだが、おいら随分経って会社の皆さんと避難完了してから
「あ。実家に電話でも入れとこうか。」と思い出して電話したんだったな。一応連絡しておこう。

流石になんか大切にした方がいいな。これは感情的に死んでるのかね?


前のとちょっと被るのだが。

人間関係ってどれくらい保つものかな、とボケッと考えていた。親子関係は一生だな。絶縁状態の人もいるかも知れないが。
友達は? どれくらいのもんかね?
結婚に至らない恋愛関係は? どんくらい付合ってんの?

そう考えると赤の他人のオトコオンナが共に暮らす夫婦って凄いな。と思った。

んだが。同じ屋根の下で似たようなもの喰って暮らしてりゃ、きっと似て来るんだよ。多分。違う?


まあいい。
  

上野。























※なんだか写真ガタガタ。直し方分からんからほっとく。





とりとめも無く。



なんとかは風邪ひかないを文字通り体現してきたのだが、木曜日の夜中に怠くなって金曜日は微熱が出ていた。
少しは利口になったかとも思ったが、実際は「老化」なのだろうよ。
よく前の会社の身体が弱い(そういう奴に限って減らず口だw)同僚に言われてたのだが
「身体の強い奴はほんのちょっとおかしくなっただけで大騒ぎする。」

まったくその通りで、なんだか全身倦怠一日ダメだった。多分だが、地震ストレスで身体がイカレタのだと思う。ひ弱だ。いや繊細だ。どっちでもいい。

土日と寝潰して、起きてる間は借りてた「水曜どうでしょう」のDVDを観てた。洋ちゃん、パパパパパフィーに「北海道限定スター」として出てたの10年以上前だもんな。出張で札幌行った時にポスターに彼が出てて
「あ、本当に大泉洋ってスターだったんだ。」
と思ったもんだった。今じゃご立派になられて。


風邪ひくと気分が感傷的になるようだ。突然、彼に会いたくなった。
ハシビロコウ。


いや単に日曜の夜テレビに出てただけなんだけどさ。以前上野動物園で彼には会っている。不思議な顔の、「マッタク動かない奴」。
シュールな怪鳥の置物みたいな奴だよ。素敵。

肺魚が好物なんだって。んで、水辺でマッタク動かないで肺魚が空気を吸いに上がって来たところをバサッとやっちゃうのよ。
しかし何故肺魚? 美味いのか?


日曜日のスーパームーンに「月曜日が晴れますように。」と祈ったら、雨でした。

雨でもすること無いから上野動物園、赤い傘さしてひとり行こうかなと思ったらさあんた、地震後休園らしいじゃないの。
自分の巡り合わせの悪さに感動するね。でも、いいや上野行く。

寒い春雨の下、ホームレスが雨に濡れたまま眠っていた。
その傍では花が見える。

寒桜。 日本人は桜が好きだからな。
 

2011年3月20日日曜日

80。/NHFH。

※ 豪華二本立て。しかし、後半 NHFH はエグい。
  エログロに耐性が無ければ、NHFH は読まない方がいいのさ、ダーリン。


■ 80。

仕事で「セゾン」についていろいろ調べていた。セゾンっていや、ウディ・アレンだね、テレビ・コマーシャル。そして、そのバックの「おいしーおいし生活♪」だよ。
それは空虚な、1980年代。おいらが小学校中学年〜高校を卒業するまでの10年間だ。
中学校に入って突然に「1960年代の虜」となってしまったおいらには、その1980年代の空気ってのは、なんだかプラスチックの板を噛まされて 「どうだ美味いだろ?」と問われているような気分だった。世間は、なぜか口角を上げニコニコと微笑んでいたが、微笑むことが義務付けられような強迫観念で 強張っているように見えた。
未だ80年代というものが分からない。ローリング・ストーンズが原色のシャツとジャケットを着てポーズをとっている時代。

さて。

 おいしい生活。

という時代の言葉は、妙な違和感を残す。それは1982年のことらしい。
生活が、おいしいって?幼心にびっくりしたね。これは、新しい表現の可能性の扉が開かれたんだ。そんな気がしたよ。

「おいしい生活。」という言葉を作ったのは糸井重里という人らしい。
その仕事は、コピー・ライターというらしいよ。凄い仕事だな、と思った。
一言で、人の想像力を未知の世界に導く。


 じぶん、新発見。
 いまのキミはピカピカに光って
 おいしい生活。
 ほしいものが、ほしいわ。
 くう ねる あそぶ
 A・B・C・Dのうちで、あなたに当てはまる部分をお読みください。
 想像力と数百円
 サラリーマンという仕事はありません。
 僕の君は世界一
 本読む馬鹿が、私は好きよ。
 あそんでねむれ。
 好きなひとが、できました。
 不思議、大好き。

いいじゃない、糸井重里。僕の頭蓋骨はプラスチックで、パステル・ピンクだ。
中身にはココナッツ・ジュースが詰まっている。そんな時代の空気だな。

しかし。彼がメディアに頻繁に登場するようになると、おいらは人と出会うたびに言われたものだ。

「糸井重里に似てるね。」

あんま嬉しくないね。
いつのまにかコピー・ライターという職業への憧れは消えていたね。




■ NHFH。

人が持てる守備範囲ってのはそんなに広く無い。これは個人差もあるが、おいらは結構狭い方だと思う。しかしTwitterって無数の言葉や情報が ダラダラと流れてきて、これは結構守備外の球も捕れるのでいいよ。フォロウする相手で一次スクリーニングしているから、野球をやってるのにアーチェリーの 矢が飛んでくるようなことも無いしね。

んで、なんだか妙なつぶやきを見つけたんだな。
「へー高田馬場にも○○○があるんだ。」

○○○。
ニューハーフ・ファッションヘルス。

おいらの頭の中には地中海に浮かぶ巨大な疑問符と同様のクエスチョンマークが出現したのだよ。 ?
えーっと、ニューハーフ、ファッションヘルス、ですか。。。?
 
ファッションヘルスというものを知らない方に解説するとですね。
シャワーと小さなベッドがついた狭い個室で、無着衣の女性が男性客の身体を弄ってサービスする、という業態です。

ということは、無着衣のニューハーフさんがお客の身体を弄ってサービスしてくれるのね。
で、客って誰よ?

男? 女? 男ノンケ? 男ゲイ?

おいら同性愛者に大きな偏見は無いつもりだが、恋愛関係と肉体関係だけはごめんなさい、女の人ですらろくに抱けないのに男なんて無理です。状態なのだね。だからどういう需要があるのか、まったく想像出来ません。

ニューハーフという方々も、バリエイションがあって、

・工事完了
・竿付き玉付き
・竿付き玉無し

とかさ。三万歩譲って「工事完了」なら分からんでも無い。でもなにが楽しくて「竿付き」の女の子と戯れるのだろう?

指名写真を眺めていると、どう考えても「ゴツい兄ちゃんがヅラ被って化粧してる」てのが数人いてさ。見てみると、彼女ら、

・女装子

というらしい。
なにが楽しくて「女装した兄ちゃん」と戯れるのだろう?

「女装子」って、なにものよ?とずっと考えていたのだが、これどう?多分、
「女装系じゃないゲイのお兄さんがバイトで女装してお店に出ている。」
これが一番しっくりくると思うのだが。流石にノンケでこの仕事はキツく無いか?

うーん、世の中にはまだまだ知らないことが多いのだな。と思ったことだよ。
 

2011年3月19日土曜日

いろいろ。

三月十二日。



流石に、人生最大の地震経験だったな。東京千代田区のビルの5Fにいたのだが、延々と揺れた。横にも揺れたが、縦にも揺れた。縦揺れが来た時に
「これは近いな(震源地)。」
と思ったが、ヤフーで宮城だって知ったときはビビったよ。東京でこんだけ揺れてるんだから、宮城はどうなのさ。
長く、何度も揺れたので地震酔いを起した。船酔いなら船から降りることを想像すればいいのだが、地震では降りるところも無い。

ツイッターでテレビ画面の写真を送られるのをみて、愕然とする。津波だ。

二度目の大揺れの時、僕の席が一番非常階段に近いので、扉を開ける。近隣ビルの人達は結構大勢ヘルメット被って下に降りて行ったよ。
僕の新しい会社の人達は、どうなってんだろうねーみたいな感じでもの静かになにもしていなかった。
随分経ってからみんなで避難することになったが、どう考えてもタイミングを逸していたな。北の丸公園に着いた頃には他の会社人の人達は解散しているようだった。
うちの会社もその場で解散。

解散といわれるので、僕はひとり歩いて帰っちゃったよ。解散だからいいんだよな。よく分からんが。
午前中からとある料理のことばかり考えていたので、延々と歩きながらセロリとピーマンとビネガーのことを考えていた。

武道館では遊助のコンサートということで、ファンが次々と集ってきていた。中には非常線が引かれて入れないけどね。しばらくして「延期です」とメガフォンで発表。みなガックリしていたよ。いや、どう考えたって無理だろ。

目白通りは多くの人達が流れている。高架下では人波の中ホームレスが寝ていた。守るものが無い人間は強い。本当だよ。守るものを作ると大変だ。
僕が一番心配したのはCDだ。地震の揺れの最中、僕は
「誰を守るのだろう?」
と考えたが、誰も思い浮かばなかった。誰もね。

途中小さなスーパーがあったので、セロリとピーマン、マッシュルームを買う。ビネガーが無かったのだが、ミツカンのデカい瓶の酢を手に取る。もう 少しで買うとこだったが、瞬時別の方法を思いつく。「ビネガー+砂糖」を使う予定だったのを「味醂+α」で解決しよう、そうしよう。

セロリをかかえてJR駅前を通る。シャッターを降ろしていた。夕方18時の山手線の線路を、撮影している人がいた。一切の光を持たない山手線の線路は異様だ。

帰宅。玄関の1000枚CDラックは、予想通り300枚程ぶちまけられていた。ガックリ。ガックリだ。
吃驚したのは、うちのベランダへのガラス戸、バカでかくて分厚いガラスが二枚入っている、つまりもの凄く重い引き戸が、(鍵をかけ忘れていたのだが)勝手に30cmくらい開いていた。

でもそれくらいだったよ。家の被害はね。

テレビをつけて、調理を始める。ガスが止まっていた。でもスイッチ入れて復旧。調理中余震があったが、すぐガスが止まった。逆に安心する。

頭の中で作った通りの味が出来た。トマトケチャップを知らない人がナポリタンを作ったらどうなるか、というのを試してみたのだ。
ひとりいつものようにテーブルについて、ナポリタンを食べながらテレビを見る。
世間の混乱と対比する日常風景が異様だった。東京は帰宅難民の問題で大騒ぎだった。

あれ。帰ってきてよかったのかな?

あまりも日常の食卓とテレビ画面が異なる。千葉で燃料タンクが地上を炎と煙りに包んで燃えている。津波で家々が流れて行く。ゴミと家が一緒に海に棄てられている。余震は続く。地震酔いが治まらないな、と思いながらひとりナポリタンを喰う。

猫がCDケースの欠片で遊んでいる。うちの子は、野性を失ってひとりでは生きられない。いざとなったら、置いていくことも考えないといけないな。
そう思って抱きしめる。そうだな。僕は自分の子供も棄てるだろうよ。

そんなもんだ。
 

ホテル。

三月五日。




祖母の葬儀より帰宅。父方の祖母。97歳だそうだ。老衰。亡くなった瞬間が分からなかった程、眠るような最期だったらしい。幸せな幕引きだ。

孫七人、曾孫五人。
一番上の孫、祖母を映画に撮った人は隠岐島で撮影があり戻れず。
FAXで弔辞を送ってくる。映画監督だ。書く文が違う。

親戚、というのは人間観察という意味ではとても面白いサンプルだ。とても、面白い。血、とはなにか。家とはなにか。
しかしそれはまた後日。


妹が、1歳の甥を連れて帰郷。おいらも初めて甥に会えた。伯父さんになった訳だ。うちの親も爺さん婆さんになった訳だな。勝手に肩書きだけ付けないで欲しい。

妹と甥が実家に泊まる。おいらと義弟は、ホテルに追い出された。
静岡の、製茶工場がところどころ立つ住宅街。実は、ここは5歳までおいらが暮らした町内だ。小さなアパートの二階で暮らしていた。角部屋だった。二階に上がる鉄階段の、上がり切ったところからホテルの建設が見えた。
3歳頃の記憶だろうか。アパートの向かいには中学校。ピンクレディーが通っていた中学校。

自分の初期記憶に出てくる建物の、あの頃作られた建物の内部に初めて足を踏み入れる。当時はそこそこのグレイドだったはずのものも、35年の年月は幾多の流行り廃りの時の流れを経て、ただの巨大なコンクリートの塊となっていた。
内装は壁紙を張り替え浴室を入れ替えそこそこ奇麗だったが、如何せん建物というものの古めかしさはかえられない。廊下、隣室の水道音が響く。しか し、することの無いひとりの夜は眠ることくらいでしか埋めることが出来ない。500ml500円のホテル自販機のスーパードライで早々に眠りにつく。

朝、水シャワーを浴びる。水シャワーは言い過ぎか。25度くらいの温度。今頃なら42度くらいが適温かね。水しか出なかった。バナナを喰って、チェックアウト。朝の界隈を散歩。

5歳まで暮らしたアパートは跡形も無く、その上に建物も建って場所の特定すら難しい。耳鼻科も床屋も無くなっている。蕎麦屋があるじゃないか。懐かしい名前にひかれてゆくと、昨秋閉店の張り紙が。
中学の壁も幼い頃と変わっていた。幼い頃母に
「中学の周りを一周走って来い」
と言われ、走るのが嫌でちんたら時間を潰していたことを思い出す。
なにもかも嫌でちんたら時間を潰すところは変わっていない。

5歳児と39歳児では距離の縮尺が変わったいた。あんなに遠く感じていた小学校も病院も、歩いてすぐの場所にあった。とっても狭い世界の話だった。とっても大きく思っていたものが、時間の経過で小さくみえることはままあることだ。
自分が西方の仏さまのように巨大に思える。そんな自分も、大きな掌の上で踊っているだけなのだがね、