2012年2月26日日曜日

君には分からないだろうねぇ。

 
だいたい「難解」だと思われるもんを解した振りをするとカッコよく見えたりすると思ってんのかね。
多数の理解を得んものを
「君にはこれの良さが分からないだろうねぇ。」
とかいうと、ちょっと上から目線なのだよ。

そういう奴はやだねぇ。よくいるよね。

というわけで、ジャクソン・ポロック展に行ってきた。
http://pollock100.com/
君にはこれの良さが分からないだろうねぇ。


写真載っけてんのはどっかネットから拾ってきた奴。
全盛期のスタイルを確立した頃の作品だな。

いや、この画家、ガキの頃から好きでさ。あんまり絵は詳しくないんだが、ウィリアム・ブレイクとジャクソン・ポロックはガキの頃から好きだった。
新聞の日曜版の美術欄で見たんだ。なんだかスゲェと思ったさ。

まぁ素人であるおいらが理屈で語ろうとしても語れはせんわ。


雨上がりの土曜の午後。国立近代美術館。
美術展ってことでもそんな大したこた無いだろうと思っていたら結構な展数で、しかも時系列に展示してあってとても面白かった。

写真引用した頃の作風は「ポーリング」という技法と「ロール・オーヴァ」という概念を確立した頃のようで、この時期が一般的に知られているようだ。
でもこれを確立するまで結構長くて、それまでの作品もかなり良かった。

ポーリングってのは、「流し込む」ってことで、画材を垂らしたり飛ばしたり叩き付けたりして描く手法らしい。これはポロックの有名な技法だから知っていたが、ロール・オーヴァってのは知らなかったから面白かったな。
カンバスの中に「焦点」を置かないで、全体を均質に捉える考えとのことだ。
(絵って、大概描かれるものを「配置」する訳だからね。)

段々時系列で追って行くと「焦点」が無くなって行くんだよね。

さて。2ちゃんでこの画家のこと、「俺だって描ける」「ガキの落書き」みたいなことを言ってる奴らがいたが、そんな「誰でもできる」ことだったら この画家はこの全盛期のスタイルを壊したりはしなかったろうに。「誰だって描ける絵、しかも超高値で売れる」ならそれを職人技で量産すればいい訳でさ。

(おいらは芸術家も職人も両方同じくらい尊敬するが、もの凄く似て根本が異なる人達だと思っている。で、芸術家っていうカテゴリーの人達が「職人的」になるのがとても嫌いなのね。これは職人を見下しているのでは無く、カテゴリーの包含関係の捉え方の問題。)

話逸れた。
全盛期のスタイルを構築した後、彼は更にその先を目指したようなんだ。
誰でも描けるスタイルで金儲けができるならば、そこに留まれば良かった訳だ。
俺でも描けるんなら、描いて売りゃいいんだ。やれよ。

しかしその次のスタイルってのは、やっぱり魅力が感じられないんだよな。
(ちなみに全盛期の直前にその「次のスタイル」っぽい作品を作っているんだが、その作品は滅茶苦茶良かった。)

本人ももう全然駄目になっちゃたらしくて「描かねばならない」という焦燥感はあるもののなにも描けなくなって、ビール大量に飲んで運転して木に突っ込んで44歳で死んじまったらしい。


なんだかさ。絶頂期に留まらずに、新しさを模索して、んで何もできなくなって死んじまうってのがさ。良かったのよ。
 

2012年2月24日金曜日

ディストーション。

今週は仕事が暇で、ある日ふらふらと外を歩いていたら東京の 道はグネリと曲がり、東とか西とか、北とかみなみとか、そういうものが馬鹿らしくなるくらい、そう、ただ僕は道なりに歩いていただけなのに陽の位置はずれ 続けて、「真っすぐ」進んでいるというのは本人の気持ちの中にしかないものなのだな、道、それが正しく導いてくれるものとは限らない、などとボケッと考え る。

2月終わりなのだね。なんだか暖かい。

有数の出版街に行き着く。仕事サボっているにしては随分遠くに来たもんだ。
小さな出版社を見つける。学生の頃、就職活動で受けた雑誌社だな。三流雑誌社。小さな会社だ。
面接を受ける。中年の男達が、比較的穏やかに順番に学生の声を聞いている。

「君はうちではどういったことをやりたいのだね?」
「そうですね、僕はポルノをやりたいです。」

なかなか懐かしい記憶だ。
15年以上経ったんだな。
俺もオトナになったもんだ。
今だったらもう少し受けのいい答えを用意しただろうよ。「雇ってもらえる」ような台詞をだな。

と考えてもみたのだが、なんだか自分が変わったのか変わっていないのか、そんなもの分かりもしないな。本質は四歳から変わっていない気がするのだよ。
多分、今仕事でしか関わりの無い人間からみたらただの仕事人間にしか思えないのだろうな。なんだか像が結ばれない。ピンクの象がはばたいて、耳元で囁く。

結局、「歪」なのだよ。
二種類の酒を混ぜ合わせ、かき混ぜもせず、舌のあたる度に二つの表情をみせる、そんな感じでさ。

有名な経済学者なのに女子高生のスカートの中を盗撮することが止められないとか。
教育者でありながら子供の遺体の画像コレクターとか。
大切に育てますと言って譲り受けた猫を殺すことに快楽を覚えるとか。

結構日常の振りを纏った狂気みたいなものに興味があるんだけどさ。
僕はそういうのに罪悪感を抱くので「日常の振りを纏」わないように努めているのだけれども、あ、誰にも言っていない狂った部分を見つけた。マズイ。
しかし、この程度の「狂い」は皆内包しているのだろうよ。

どうやってその歪さと折り合いをつけて暮らしてるのでしょうね。
おうかがいしたいものですわ。
 


(なんだかネタが無いのでたまに書くと変なことばかり書いている気がするのだが、別に健康ですよ、いつも程度にはね。)

ディストーション。

2012年2月11日土曜日

ねぇ、元気?

こんなフランクな言い方をしてよいのでしょうか?
もう既になにがなんだかよく分かりません。

正しいとか間違っているとか、そういうことは感じ方の問題です。セクシャル・ハラスメントと同じです。意中の男性から髪型を褒められるとアガりますが、気持ち悪い人から褒められると「それってセクハラですよ。」と冷たく言い放つ。そういう気分は分からないではないです。

ルールというのは、その感じ方を思い出すための道具です。気持ち悪い人から髪型を褒められたら気分が悪かった。それを思い出して、今後そのようなことはされないようにしよう。そういうことです。

自分自身がなにものなのか、よく分かりません。小さい頃は自分がとても正しい人間だと思っていました。スタンダードだと思っていたのですね。でも、万人が共有する価値など無いこと、そして少なくとも自分がそんなマジョリティで無いことを悟りました。

すると、今度は自分が変な人間ではないか?と思ったのですよ。変ならば、では変なりに生きるのもいいか。そう思って過ごす。

でもね。田舎から都会に出てくるとね。まわりは変な奴らばっかり。自分がとても常識的な人間に思えるのです。こんな変な連中並には成れんわ。いや、やっぱり自分は「超」普通な人間なんだな。奇をてらった生き方は、お前には無理なんだよ。人並みに暮らしなさいよ。

でもね。それでもやっぱり人並みからは浮いてしまうんです。世間に身を置くと変な人扱いなんですね。
いやぁ一体どこに居場所があるんですかね?
もうね、部屋の中でアルコールでアタマブッ飛ばすしか無い訳です。


と、ここまでは自分の異常行動を正当化するための方便。
大体、そんな自分の不誠実の言い訳ばかり探して、自分に非が無いようにセイフティ・ネットを張っとく訳さ。小猾いね。いや小猾く無きゃ世渡り出来ませんって。

で、本題に行く前に終わる。