2011年2月11日金曜日

奇子。

自分が若ければ「如何に生きるのか」というのが課題かも知れんが。
四十ともなれば「如何に自分に始末をつけるか」という事ばかり考える。
あとしまつ、という奴だ。


手塚治虫の「奇子」という作品がちょいと Twitter上で話題にのぼったので、即Amazonで発注してしまった。
「裏」手塚治虫の代表作とのことだ。「読後感が悪い」とか、「グロい」とかいう評価らしい。
でもな、10歳くらいで「アトムの最後」を読んで暗澹たる気持ちになった身としては、手塚治虫に裏も表も無いな。
ガキの頃「アドルフに告ぐ」をお袋がハードカヴァで買って(すぐ古本屋に出したようだが)、手塚氏がいわゆるお子ちゃま向け作家では無いことは分かっている。

読み終えて、特にグロさは感じなかった。感じ入る部分もあまり無かった。ただ壮大なストーリーが描かれている点について、よくもこのようなフィクションが作られるものだ。とひとり感心する。
これに「グロさ」や「悪い読後感」が残らないというのは、もうそういった感情に塗れ過ぎて麻痺しているのだろうか。と自分を心配してみる。


糞田舎の大地主一族が戦後の農地解放で没落していく過程を25年ほどのスパンで描いているのだが、一族すべてが狂っていて、その報いですべてが終わる。
主人公は明確では無く、群像として一族のそれぞれの生き方が語らている。それぞれの狂った生き方がね。
そういう意味ではなぜ末娘の「奇子」がタイトルなのだろう?
ああ、でも一族の狂ったものの集積所みたいな機能を果たしているのは奇子だな。誰も彼も狂っているのだが、そのバラバラの狂気は、扇の要のように末娘で繋がっている。

四半世紀にもわたる壮大なストーリー、濃厚な接点の者、希薄な接点な者、それぞれ同じ家族が自分の人生を過ごした後、最後の最後に再集合。すべてが終わる。
最後にひとり生き残った無垢な婆さんが、「家」のことを

「わしさえたっしゃなら、潰しはしねだ。」

といって終わるところがそうなんだよね。女というか、婆さんというか、「家」というものを強く意識している人間というか。
大きな波が四方から打ち寄せても、何も言わず、じっと動かず耐えていた者が、結構最後まで生き延びるものかも知れない。達観しているのだろうかね。

それならおいらは即殺される役どころだな。動きまわって、騒ぎ立てて、早死にだ。


ああ、なんだかとりとめもなく書いて終わる。
 

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