2010年12月30日木曜日

はなし三つ。


時間を潰すのが苦手。アルコールを饗する店以外では、時間の潰し方が分からない。

結局、只管歩く。夕方と呼ぶには少し前の午後、青物横丁の旧東海道を歩く。別にそこが目当てで来た訳では無く、たまたま青物横丁に用があったのだ。そして、時間を潰す必要があった。
通りには寺院がいくつも並んでいた。どれもうまく説明出来ない不自然さがあった。多分、その町を日常としたならば感じないような不自然を、よそ者の僕はモロに感じてしまったのだろう。理由は分からない。

通りを横に入ると小さな鉄屑工場があった。巨大な磁石で、壊れた冷蔵庫や洗濯機を持ち上げていた。なにか資料映像のようなものでは見たことがあったかも知れないが、巨大な磁石で鉄の塊を持ち上げる風景に記憶は無かった。もの凄く、古い時代の風景だと勝手に思い込んでいた。
分からないけれどね。僕だって子供の頃にはまだオート三輪が走っていた世代だ。乗り合いバスには車掌さんがいて、いつの間にか「ワンマン」バスの時代にスライドしていた。巨大な磁石の屑鉄工場も、どこかで見ていたかも知れない。思い出せない。

日常と異なる風景の中で、人々が暮らす風景を眺める。市井の日々。
ふと、「有名であること」という言葉が頭に浮かんだ。
「何を成す」では無く、単に「あなたは『有名』になりたいですか?」と人に尋ねたら、何%の人が「有名」になりたいのだろう、と思った。それは市井の日々とは対極だ。
「有名」ってなんだろな。なりたい人ってのは、「多くの人に自分を記憶して欲しい」のかな。「多くの人の心の中に住みたい」のかな。そうでもしないと「孤独で死んじゃう」のかねぇ、兎みたいに。
まぁ孤独だろうが孤独で無かろうがみんな最後は死ぬんだけどね。だから、無名でいいよ。



ふと夜テレビをつけていたら、MXテレビで「小さな恋のメロディ」をやっていた。調べたら、MX 結構年末に面白い映画を放送するようだ。二本くらい録画しようかな。

横目で流して観ているつもりで、どっぷりとしっかりと観ちゃったよ、小さな恋のメロディ。この映画って、実は流行ったのは日本でだけなんだってね。
60年代と70年代の狭間の英国で撮影されたであろう街が、街に放置された廃墟が、奇麗だった。

ストーリーはご存知の「大人は分かってくれない」モノだが、日本で似たようなことやったらもっと暗くなるだろうな。只管ほのぼのとしていて、主人公の男の子が妙に幼いのがいいよ。
「なんで結婚出来ないの?一緒にいたいってことが結婚じゃないの?」
と問いかける11歳のカップルに大人は誰も明確な説明が出来ない。
理屈で説明出来ることばかりじゃ無いってことを、観る側は知ってしまっている。でも、それを「知ってる」顔をして過ごすのがカッコいいとも思えんだろうよ。
そんなことに疲れたときは、疲れたって言って全部放り出しちゃえばいいんだ。



朝、不用意に褒められる。褒められることの無い人生なので、ちょいと吃驚した。
褒められることが無い、か。そうなんだよな、僕は母親に「感謝された」ことと「褒められた」経験が無いのだ。そんなんだからさ、「褒められ/感謝され」慣れていないので、たまにあるとリアクションに困るんだよね。

8年くらい前か?英国にストロウベリ・フィールドを観に行った。実家に事前に連絡を入れておく。ついでに土産は何か欲しいか?と母に尋ねる。その前に英国に行ったときは、ラプサンスーチョンを買って帰ったものだ。
「ジェラルド・ダレルの本が欲しい」
と母は宣う。1950年代〜60年代の本だよ。ジェラルド・ダレルが幼少の頃ギリシャの島で暮らしていたころの回顧録だろう。欲しい本のタイトルをメモにして持ち歩く。

僕の旅の目的は早々に果たされる。リヴァプールに着いて、観光バスに乗れば大概の場所を巡る。ストロウベリ・フィールドも、ペニー・レインも観て来たよ。

さて、するべきことも無くなり、では愛しいお母さまの為に本でも探しましょうか。リヴァプールでも、ロンドンでも本屋があれば入って、店員に探している本のタイトルを見せるのだが、幾分古過ぎるよね。どこにも無いのだよ。
ふらっと入った怪し気な本屋で怪し気な店主に本のタイトルを見せると、
「ここは、ミステリー専門の本屋なんだよ。」
と囁かれる。
ロンドンの大型書店、日本だったら「○○ブック・センター」とでも店名が付きそうな店。そこでタイトルを検索してもらうと、ようやく見つかった。中々の大仕事だったな。見つけたよ、ジェラルド・ダレル。

帰国後、本を包み、実家に送る。

「ああ、本、買って来たから。送っといたよ。」
「ああそう、そうですか。まあ、ああいうのも、インターネットで買えたりするんだけどね。。。」

中々いい親子だな、と思った。蛙の子は蛙。
あまり褒められたり、感謝されることの無い人生を歩んだ方が良さそうだ。
何分不慣れだからね。
 

2010年12月27日月曜日

雪について。

雪の降らない国で育った。国。
「キミのお国はどちらなの?」
と聞くと、吃驚されることがある。故郷の土地のことを、「国」と呼ぶのは一般的では無いのかね?

まぁいい。僕の田舎は、雪が降らない。列島の中央を走る山脈に妨げられ、雪雲が僕の育った街には届かないようなのだ。
十数年に一度くらい、3cmも雪が積もると子供達は歓喜した。風花でも飛べば、「雪だよ。」と言って興奮したものだ。つまり、それくらい雪とは無縁であるということ。

今、どうやら寒波が日本列島を覆っているようで、ニュースでは雪で乱れる交通機関の映像を流している。
妹が近畿地方の山奥に住んでいるのだが、産後の妹の手伝いで母が冬のかの地に赴いた時、その色彩の乏しい静かな土地に、何か落ちていくような気分を味わったそうだ。

ニュースの映像の中で、くすんだ白い空と、汚れた白い大地の風景が流れる。モノクロームの世界に、人造物のみが色彩を放つ。とは言え、その色彩は世界の支配を逆転する程の力は持たない。色の力が無力だ。

白い風景に飲み込まれる。別にそれは暴力的ではない。静かで、冷たく白いだけだ。
音と色の無い世界の底辺で、沈黙を守っている新しい生命は、春の訪れをただ只管に待つのだろうね。そして雪が溶ければ、彼等の色彩を伴う反逆が始まるのだ。

2010年12月22日水曜日

新宿。

昼過ぎに、仕事絡みで新宿に呼び出される。あまり普段付合いの無い業界なのだが。
先方は二人出てきて、そのうちの歳上の方はサクサクと僕の持ってきた書類に目を通し、
「もう僕の方は(もう話すことも無いから)いいよ。もういいんじゃない?」
と話をはやく終わらせようとする。
ちょっと一般的なビジネスとは異なる業界なので真意は掴みかねるが、呼び出しておいて「もういいんじゃない?」というのもな。
普通に考えれば「この件はダメだから、もう話してもしょうがない」と解釈出来そうだが。しかし話相手を前にそういう態度、とるかな。
「この件はOKだからもういいよ」なのかね。そっちならいいんだけどね。


あっさりと新宿の用事が終わる。駅までの地下道を歩いて通ると、ああ、ベルクがあるじゃない。
http://www.berg.jp/index.htm

ちょっと新宿の文化人を気取るなら、ベルクだよね。チーズ・ドッグとビールを頼む。酒なら朝から三杯程カクテルを飲んで出て来たのだが。それでも昼下がりのベルクのビールというのは、それはまた別の気分だよ。
平日の日中、妙に気の強そうな(所謂団塊の世代を闘い抜いて来たような)おばさまや、おっさん、どっかの劇団員風の若者、あと得体の知れない高校生くらいの歳の女の子達。コーヒーかビールを片手にぼけっと過ごしているね。

僕は壁に貼られたモノクロのヌード写真を眺めながら、立ってホットドッグをかじる。このヌードは、アングラ劇なのか、それともストリップなのか。 多分、後者だな。アートなのか、エロなのか。しかし、踊り子達の体型の悪いこと。昭和の女の体だ。骨が太く、くびれのはっきりしないウエストライン。手足 は短く頭骨が大きい。郷愁感のある肉体が、かえってエロスを感じさせる。

新宿。
以前も書いたことがあるのだが、僕は中央線が苦手だ。そして中央線に住む人達の自意識みたいなものも苦手なのだ。
もしも彼等がその自らの世界を「アウトサイド」と解釈しているのならば、そこにすら馴染めない僕はどこの世界の住民なのだろう?「アウトサイド」の裏側は、「インサイド」か。しかしどう考えても「インサイド」のいきものでは無いな。
インサイドとアウトサイドの、継ぎ目の狭いどぶにでも生息してるのだろうかね、僕は。

滅多に入らないベルクで、チーズ・ドッグを頼んでしまった。ソーセージの味を楽しみたいのなら、チーズは余分だったな。
今日はマクドナルドでビッグマックが200円だ。なにをベルクでビール片手に贅沢しているのだろうね。
意味も脈絡も無く、帰って Kate Bush のアルバムでも聞こう。そう思った。
 

2010年12月15日水曜日

映画版。

朝から映画「ノルウェイの森」を観て帰宅。
結局、この手のは「文字」をどういう方法で「映像化」するか、という部分の好き嫌いでしかないのだろうな。そこで賛否が分かれるかも知れないが、僕は満足でした。

原作を、あえて読み返さないで観たのですがそれは正解かな。「原作をそのまま映像化」したものを望むといくらでも不満は出流でしょう。
「ヴィヨンの妻」が原作の短編小説を忠実になぞって映像化していたのとは違う。

元々「雨の中の庭」というタイトルになる予定だった小説に「ノルウェイの森」という曲(実際は不倫ソングなのだが)のタイトルを被せた時、その曲の空気感と小説の空気感が一致した時点で原作は成功だったのだろうな。
そういう意味では、小説の持っていた空気感を映像に移植出来た時点で映画は成功だったと思う。

長編小説の文字を95%くらいカットして残り5%を朗読し、その隙間を美しい映像で埋めるような作り、この監督の手腕は素晴らしい。
「小説言葉」を村上春樹が「話し言葉に変えてはどうか」とアドバイスしたのに対し、現場で「小説言葉」のままでやろうとの判断があったらしい。松山ケンイチの朴訥とした語りは主人公の感じている違和感を具現化しているようにも思える。

結局、長編小説を2時間の映像にするのであれば、原作の持っている要素を相当省かねばならないと思うのだが、この「引き算」の表現が大人でいいです。
人は何かをしようとすると、兎角自信が無くて「足し算」ばかりしてしまうものですが、そこを「引き算」の美で見せるところがいいですね。
本筋と関係無い印象的な挿入エピソードがさらっと流されていたり、登場人物のキャラクター差で幅を持っていた世界をギュッと凝縮して、世界観を単調にしたのがとっ散らかりを防いだように思えます。

好き嫌いは別として、菊池凛子って人は「巧い」人だな、と思いました。初めてみたんですが。台詞の少ない映画を、表情だけで語る演技は流石世界的な女優だな、と思ったもんです。

賛否が分かれるのは承知で、僕はとても好きですね。

2010年12月4日土曜日

昆虫が怖い。

昆虫が怖い。
怖い。というのが正しく伝わらないだろうとは思うのだ。別に触るのが嫌だとか、そういったものでは無くて、存在がと言おうか。物理的な問題では無くて、だね。

しかもこれは完全変態に特化した気分なのだが。
昆虫には主に二種いて、完全変態と不完全変態。
(一応無変態というものもいることはいる。)

不完全変態っていうのは、バッタとか。ハサミムシとか。セミもそうなんだけどね。幼体と成体が同形で、規定数の脱皮を経ると羽根が生える、程度の変化を見せるもの。

それに対して完全変態っていうのは、チョウとかカブトムシとかハエとかアリだよ。
幼体はいずれもミミズのような体で、只管に食物を摂取し、成長する。ある程度の脱皮数を経ると、最終回の一回手前で蛹という形態になるのだな。
蛹、という状態になると、体表を除いて内部は一旦ドロドロになる。そして身体の中の「お前さんは、○○におなり。」という信号を頼りに、そのドロドロは新たな足とか頭とか胴体に変化するのだよ。そして最後の羽化で、体表を突き破りチョウとかカブトムシになる訳だ。
ゴカイからカニに変わるような劇的な形態の変化だよ。しかも空中飛行の器官も備えている。

これって、怖くないですか?
今晩、眠っている間にあなたの体が全部ドロドロに溶けてしまって、二日後に気付いたら巨大なヤスデになっている、そんなことを想像してみましょうよ。

眠れなくなるから。


更に。

完全変態の昆虫の所謂「幼虫」と「成虫」って、どっちがメインだと思う?
イモムシのまま只管なにかを食べている時期と、空を飛んで交尾の相手を捜す時期。

勝手に「幼虫」とか「成虫」とかって言葉を与えているけれど、実は「成虫」ってのは「セックスをして卵作って死ぬだけの形態」なのかも知れないな、なんて思ってみたりしてさ。大概、「幼虫」の時期の方が「成虫」の時期より長いでしょ?
どっちが彼等の人生(虫生)のメイン・ステージなんだろう?と考えると、実は成虫なんて虚しい時期なのかもな、と思ってみたり。

あなたの人生は、いま幼虫なのか、成虫なのか、もしくは蛹なのか。
そんなこと考えるとさ。

眠れなくなるから。

2010年12月3日金曜日

ふわふわ。

イギリスだったと思うのだが、とあるカップルの男の素行が悪い、と。女は男にこりごりだったのだが、ある日男に災難が降り掛かり記憶が無くなってしまったとさ。
その途端彼の素行不良も治まり、女は満足で一緒に暮らしているとのこと。

漫画ハッピー・マニアでも養蜂場に流れて来たタカハシに思いを寄せるタカコは、タカハシが蜂に刺されたショックで記憶が飛んでる間に彼との結婚を謀って結果結婚に漕ぎ着けるのだな。

記憶の飛んで人格の変わった人間に以前と同様の熱量で愛情を注ぐ、ものか。
まぁ自分に配偶者がいて、その記憶が飛んでも結婚生活は維持するのだろうけれどな。
でもそう考えると、「男と女が一緒にいる」というのは何が二人を繋ぎ留めるものなのだろうねぇ。結構、ふわふわと実体の無い「なにか」なんだろうけれど。

先日タレントの原千晶が結婚発表して、彼女、子宮がんで子供が出来ないらしいんだが、そのような「子供の出来ない人生」を彼に背負わせてしまうことに非常に罪悪感を持っているらしい。
そうしたら旦那が言うに、
「子は『かすがい』なんだよ。でもボクらにはそれが無いんだから、その分ふたりはもっと仲良くしなきゃいけないんだ。」
と答えたと言う。
いい男と一緒になったのね。

「いい男におなり。」

まぁいい男の定義も女の人によって違うだろうから、それはふわふわとした実体の無い「なにか」なのだから、掴めはしないのだろうけれど。

まぁあなたにとっての「いい男」になれればいいのだ、と思う訳ですよ。
 

2010年12月2日木曜日

板の上の愛ちん。

飯島愛が好きだったな。

飯島愛。90年代初期にアダルトビデオ女優でデビューして、すぐに人気者になったようだ。そのまま深夜のエロ番組に抜擢され、いつの間にか 〔AV女優→テレビタレント〕 にシフトした初期の成功例だね。及川奈央 とか 蒼井そら なんかがその路線の後継かね。
アダルトビデオ女優としては、ボクはなんにも興味が無かった。ボクはこの手のやつは「顔」と「スタイル」を重視するのだけれど、どうにも彼女の「垢抜けない」顔が好きになれなかったんだよな。胸は如何にも「整形です」って感じだしさ。
ヤンキー臭い雰囲気も苦手で、つまりは「どっちかと言えば嫌い」な存在だった。


ボクの家には90年代前半の5年間はテレビは無かったし(つまりビデオも)、仕事始めてからはゴールデン・タイムのテレビ番組なんて見る機会が無かったので飯島愛をいつから好きになったのか、明確な記憶が無い。

彼女はあまり知識が少ないようで、どんな権威のある人やモノに対しても同じ水準で接することができるのが強みだよな。そして非常に的を射た「疑問」を持って、堂々と本人に聞けたりしてさ。

オトナがなれない「王様は裸、と叫ぶ少年」の役回りを天然で出来たんだよ。

ミスター・タイガース掛布雅之とテレビに出て、掛布の昔の映像をみて
「掛布ちゃんって、すごい人なんだねー」
と吃驚していたのが印象に残っている。

もちろん直接は知らないので伝聞でしかないのだけれど、そういった表の顔とは別に裏では非常に人情深く、そして孤独だったようだね。うん、孤独の匂いがプンプン漂っているような人だった。


2007年3月に突然芸能界を引退する。
「テレビに出ているような人はみんな『板の上』で勝負できる。あたしにはそんなものが一切無い。勝負出来ない。」

引退してもブログはたまに更新されていたからな。みてたんだ。2008年の12月には、エイズ関連のキャンペーンに出席して、街中でコンドームを配っている映像が流れたりして。昔ながらの軽妙なしゃべりで街の人に接していて、凄く安心したものだった。
「ほら、かあちゃん、これ。あ、もう要らないか?」

そのほんの数週間後、クリスマス・イヴの日に彼女の死亡速報が流れる。
自宅マンションで死後一週間程度で発見。孤独な人は孤独に死ぬのかね。


今、彼女を思い出そうとしても、なにも浮かばないんだよな。
所謂芸能関係者って、音楽とか映画とか、ドラマのアーカイヴとか何かしらその人を回顧することが出来ると思うのだが。彼女、(AV以外では)何も残っていないよな。ゴースト・ライターが書いたベスト・セラー本があったか。読んでないけれど。

確かに「板の上」で勝負しないと、なにも残るものって無いんだな。彼女の言った意味がなんとなく分かって来た気がするよ。

そういう意味では、もの凄く「刹那的な」人なんだろうな。一瞬一瞬で放つ言葉が素敵だった。それだけの人。とても好きでした。多くの人に愛されても孤独なんてそれは不思議。