2010年12月30日木曜日

はなし三つ。


時間を潰すのが苦手。アルコールを饗する店以外では、時間の潰し方が分からない。

結局、只管歩く。夕方と呼ぶには少し前の午後、青物横丁の旧東海道を歩く。別にそこが目当てで来た訳では無く、たまたま青物横丁に用があったのだ。そして、時間を潰す必要があった。
通りには寺院がいくつも並んでいた。どれもうまく説明出来ない不自然さがあった。多分、その町を日常としたならば感じないような不自然を、よそ者の僕はモロに感じてしまったのだろう。理由は分からない。

通りを横に入ると小さな鉄屑工場があった。巨大な磁石で、壊れた冷蔵庫や洗濯機を持ち上げていた。なにか資料映像のようなものでは見たことがあったかも知れないが、巨大な磁石で鉄の塊を持ち上げる風景に記憶は無かった。もの凄く、古い時代の風景だと勝手に思い込んでいた。
分からないけれどね。僕だって子供の頃にはまだオート三輪が走っていた世代だ。乗り合いバスには車掌さんがいて、いつの間にか「ワンマン」バスの時代にスライドしていた。巨大な磁石の屑鉄工場も、どこかで見ていたかも知れない。思い出せない。

日常と異なる風景の中で、人々が暮らす風景を眺める。市井の日々。
ふと、「有名であること」という言葉が頭に浮かんだ。
「何を成す」では無く、単に「あなたは『有名』になりたいですか?」と人に尋ねたら、何%の人が「有名」になりたいのだろう、と思った。それは市井の日々とは対極だ。
「有名」ってなんだろな。なりたい人ってのは、「多くの人に自分を記憶して欲しい」のかな。「多くの人の心の中に住みたい」のかな。そうでもしないと「孤独で死んじゃう」のかねぇ、兎みたいに。
まぁ孤独だろうが孤独で無かろうがみんな最後は死ぬんだけどね。だから、無名でいいよ。



ふと夜テレビをつけていたら、MXテレビで「小さな恋のメロディ」をやっていた。調べたら、MX 結構年末に面白い映画を放送するようだ。二本くらい録画しようかな。

横目で流して観ているつもりで、どっぷりとしっかりと観ちゃったよ、小さな恋のメロディ。この映画って、実は流行ったのは日本でだけなんだってね。
60年代と70年代の狭間の英国で撮影されたであろう街が、街に放置された廃墟が、奇麗だった。

ストーリーはご存知の「大人は分かってくれない」モノだが、日本で似たようなことやったらもっと暗くなるだろうな。只管ほのぼのとしていて、主人公の男の子が妙に幼いのがいいよ。
「なんで結婚出来ないの?一緒にいたいってことが結婚じゃないの?」
と問いかける11歳のカップルに大人は誰も明確な説明が出来ない。
理屈で説明出来ることばかりじゃ無いってことを、観る側は知ってしまっている。でも、それを「知ってる」顔をして過ごすのがカッコいいとも思えんだろうよ。
そんなことに疲れたときは、疲れたって言って全部放り出しちゃえばいいんだ。



朝、不用意に褒められる。褒められることの無い人生なので、ちょいと吃驚した。
褒められることが無い、か。そうなんだよな、僕は母親に「感謝された」ことと「褒められた」経験が無いのだ。そんなんだからさ、「褒められ/感謝され」慣れていないので、たまにあるとリアクションに困るんだよね。

8年くらい前か?英国にストロウベリ・フィールドを観に行った。実家に事前に連絡を入れておく。ついでに土産は何か欲しいか?と母に尋ねる。その前に英国に行ったときは、ラプサンスーチョンを買って帰ったものだ。
「ジェラルド・ダレルの本が欲しい」
と母は宣う。1950年代〜60年代の本だよ。ジェラルド・ダレルが幼少の頃ギリシャの島で暮らしていたころの回顧録だろう。欲しい本のタイトルをメモにして持ち歩く。

僕の旅の目的は早々に果たされる。リヴァプールに着いて、観光バスに乗れば大概の場所を巡る。ストロウベリ・フィールドも、ペニー・レインも観て来たよ。

さて、するべきことも無くなり、では愛しいお母さまの為に本でも探しましょうか。リヴァプールでも、ロンドンでも本屋があれば入って、店員に探している本のタイトルを見せるのだが、幾分古過ぎるよね。どこにも無いのだよ。
ふらっと入った怪し気な本屋で怪し気な店主に本のタイトルを見せると、
「ここは、ミステリー専門の本屋なんだよ。」
と囁かれる。
ロンドンの大型書店、日本だったら「○○ブック・センター」とでも店名が付きそうな店。そこでタイトルを検索してもらうと、ようやく見つかった。中々の大仕事だったな。見つけたよ、ジェラルド・ダレル。

帰国後、本を包み、実家に送る。

「ああ、本、買って来たから。送っといたよ。」
「ああそう、そうですか。まあ、ああいうのも、インターネットで買えたりするんだけどね。。。」

中々いい親子だな、と思った。蛙の子は蛙。
あまり褒められたり、感謝されることの無い人生を歩んだ方が良さそうだ。
何分不慣れだからね。
 

2010年12月27日月曜日

雪について。

雪の降らない国で育った。国。
「キミのお国はどちらなの?」
と聞くと、吃驚されることがある。故郷の土地のことを、「国」と呼ぶのは一般的では無いのかね?

まぁいい。僕の田舎は、雪が降らない。列島の中央を走る山脈に妨げられ、雪雲が僕の育った街には届かないようなのだ。
十数年に一度くらい、3cmも雪が積もると子供達は歓喜した。風花でも飛べば、「雪だよ。」と言って興奮したものだ。つまり、それくらい雪とは無縁であるということ。

今、どうやら寒波が日本列島を覆っているようで、ニュースでは雪で乱れる交通機関の映像を流している。
妹が近畿地方の山奥に住んでいるのだが、産後の妹の手伝いで母が冬のかの地に赴いた時、その色彩の乏しい静かな土地に、何か落ちていくような気分を味わったそうだ。

ニュースの映像の中で、くすんだ白い空と、汚れた白い大地の風景が流れる。モノクロームの世界に、人造物のみが色彩を放つ。とは言え、その色彩は世界の支配を逆転する程の力は持たない。色の力が無力だ。

白い風景に飲み込まれる。別にそれは暴力的ではない。静かで、冷たく白いだけだ。
音と色の無い世界の底辺で、沈黙を守っている新しい生命は、春の訪れをただ只管に待つのだろうね。そして雪が溶ければ、彼等の色彩を伴う反逆が始まるのだ。

2010年12月22日水曜日

新宿。

昼過ぎに、仕事絡みで新宿に呼び出される。あまり普段付合いの無い業界なのだが。
先方は二人出てきて、そのうちの歳上の方はサクサクと僕の持ってきた書類に目を通し、
「もう僕の方は(もう話すことも無いから)いいよ。もういいんじゃない?」
と話をはやく終わらせようとする。
ちょっと一般的なビジネスとは異なる業界なので真意は掴みかねるが、呼び出しておいて「もういいんじゃない?」というのもな。
普通に考えれば「この件はダメだから、もう話してもしょうがない」と解釈出来そうだが。しかし話相手を前にそういう態度、とるかな。
「この件はOKだからもういいよ」なのかね。そっちならいいんだけどね。


あっさりと新宿の用事が終わる。駅までの地下道を歩いて通ると、ああ、ベルクがあるじゃない。
http://www.berg.jp/index.htm

ちょっと新宿の文化人を気取るなら、ベルクだよね。チーズ・ドッグとビールを頼む。酒なら朝から三杯程カクテルを飲んで出て来たのだが。それでも昼下がりのベルクのビールというのは、それはまた別の気分だよ。
平日の日中、妙に気の強そうな(所謂団塊の世代を闘い抜いて来たような)おばさまや、おっさん、どっかの劇団員風の若者、あと得体の知れない高校生くらいの歳の女の子達。コーヒーかビールを片手にぼけっと過ごしているね。

僕は壁に貼られたモノクロのヌード写真を眺めながら、立ってホットドッグをかじる。このヌードは、アングラ劇なのか、それともストリップなのか。 多分、後者だな。アートなのか、エロなのか。しかし、踊り子達の体型の悪いこと。昭和の女の体だ。骨が太く、くびれのはっきりしないウエストライン。手足 は短く頭骨が大きい。郷愁感のある肉体が、かえってエロスを感じさせる。

新宿。
以前も書いたことがあるのだが、僕は中央線が苦手だ。そして中央線に住む人達の自意識みたいなものも苦手なのだ。
もしも彼等がその自らの世界を「アウトサイド」と解釈しているのならば、そこにすら馴染めない僕はどこの世界の住民なのだろう?「アウトサイド」の裏側は、「インサイド」か。しかしどう考えても「インサイド」のいきものでは無いな。
インサイドとアウトサイドの、継ぎ目の狭いどぶにでも生息してるのだろうかね、僕は。

滅多に入らないベルクで、チーズ・ドッグを頼んでしまった。ソーセージの味を楽しみたいのなら、チーズは余分だったな。
今日はマクドナルドでビッグマックが200円だ。なにをベルクでビール片手に贅沢しているのだろうね。
意味も脈絡も無く、帰って Kate Bush のアルバムでも聞こう。そう思った。
 

2010年12月15日水曜日

映画版。

朝から映画「ノルウェイの森」を観て帰宅。
結局、この手のは「文字」をどういう方法で「映像化」するか、という部分の好き嫌いでしかないのだろうな。そこで賛否が分かれるかも知れないが、僕は満足でした。

原作を、あえて読み返さないで観たのですがそれは正解かな。「原作をそのまま映像化」したものを望むといくらでも不満は出流でしょう。
「ヴィヨンの妻」が原作の短編小説を忠実になぞって映像化していたのとは違う。

元々「雨の中の庭」というタイトルになる予定だった小説に「ノルウェイの森」という曲(実際は不倫ソングなのだが)のタイトルを被せた時、その曲の空気感と小説の空気感が一致した時点で原作は成功だったのだろうな。
そういう意味では、小説の持っていた空気感を映像に移植出来た時点で映画は成功だったと思う。

長編小説の文字を95%くらいカットして残り5%を朗読し、その隙間を美しい映像で埋めるような作り、この監督の手腕は素晴らしい。
「小説言葉」を村上春樹が「話し言葉に変えてはどうか」とアドバイスしたのに対し、現場で「小説言葉」のままでやろうとの判断があったらしい。松山ケンイチの朴訥とした語りは主人公の感じている違和感を具現化しているようにも思える。

結局、長編小説を2時間の映像にするのであれば、原作の持っている要素を相当省かねばならないと思うのだが、この「引き算」の表現が大人でいいです。
人は何かをしようとすると、兎角自信が無くて「足し算」ばかりしてしまうものですが、そこを「引き算」の美で見せるところがいいですね。
本筋と関係無い印象的な挿入エピソードがさらっと流されていたり、登場人物のキャラクター差で幅を持っていた世界をギュッと凝縮して、世界観を単調にしたのがとっ散らかりを防いだように思えます。

好き嫌いは別として、菊池凛子って人は「巧い」人だな、と思いました。初めてみたんですが。台詞の少ない映画を、表情だけで語る演技は流石世界的な女優だな、と思ったもんです。

賛否が分かれるのは承知で、僕はとても好きですね。

2010年12月4日土曜日

昆虫が怖い。

昆虫が怖い。
怖い。というのが正しく伝わらないだろうとは思うのだ。別に触るのが嫌だとか、そういったものでは無くて、存在がと言おうか。物理的な問題では無くて、だね。

しかもこれは完全変態に特化した気分なのだが。
昆虫には主に二種いて、完全変態と不完全変態。
(一応無変態というものもいることはいる。)

不完全変態っていうのは、バッタとか。ハサミムシとか。セミもそうなんだけどね。幼体と成体が同形で、規定数の脱皮を経ると羽根が生える、程度の変化を見せるもの。

それに対して完全変態っていうのは、チョウとかカブトムシとかハエとかアリだよ。
幼体はいずれもミミズのような体で、只管に食物を摂取し、成長する。ある程度の脱皮数を経ると、最終回の一回手前で蛹という形態になるのだな。
蛹、という状態になると、体表を除いて内部は一旦ドロドロになる。そして身体の中の「お前さんは、○○におなり。」という信号を頼りに、そのドロドロは新たな足とか頭とか胴体に変化するのだよ。そして最後の羽化で、体表を突き破りチョウとかカブトムシになる訳だ。
ゴカイからカニに変わるような劇的な形態の変化だよ。しかも空中飛行の器官も備えている。

これって、怖くないですか?
今晩、眠っている間にあなたの体が全部ドロドロに溶けてしまって、二日後に気付いたら巨大なヤスデになっている、そんなことを想像してみましょうよ。

眠れなくなるから。


更に。

完全変態の昆虫の所謂「幼虫」と「成虫」って、どっちがメインだと思う?
イモムシのまま只管なにかを食べている時期と、空を飛んで交尾の相手を捜す時期。

勝手に「幼虫」とか「成虫」とかって言葉を与えているけれど、実は「成虫」ってのは「セックスをして卵作って死ぬだけの形態」なのかも知れないな、なんて思ってみたりしてさ。大概、「幼虫」の時期の方が「成虫」の時期より長いでしょ?
どっちが彼等の人生(虫生)のメイン・ステージなんだろう?と考えると、実は成虫なんて虚しい時期なのかもな、と思ってみたり。

あなたの人生は、いま幼虫なのか、成虫なのか、もしくは蛹なのか。
そんなこと考えるとさ。

眠れなくなるから。

2010年12月3日金曜日

ふわふわ。

イギリスだったと思うのだが、とあるカップルの男の素行が悪い、と。女は男にこりごりだったのだが、ある日男に災難が降り掛かり記憶が無くなってしまったとさ。
その途端彼の素行不良も治まり、女は満足で一緒に暮らしているとのこと。

漫画ハッピー・マニアでも養蜂場に流れて来たタカハシに思いを寄せるタカコは、タカハシが蜂に刺されたショックで記憶が飛んでる間に彼との結婚を謀って結果結婚に漕ぎ着けるのだな。

記憶の飛んで人格の変わった人間に以前と同様の熱量で愛情を注ぐ、ものか。
まぁ自分に配偶者がいて、その記憶が飛んでも結婚生活は維持するのだろうけれどな。
でもそう考えると、「男と女が一緒にいる」というのは何が二人を繋ぎ留めるものなのだろうねぇ。結構、ふわふわと実体の無い「なにか」なんだろうけれど。

先日タレントの原千晶が結婚発表して、彼女、子宮がんで子供が出来ないらしいんだが、そのような「子供の出来ない人生」を彼に背負わせてしまうことに非常に罪悪感を持っているらしい。
そうしたら旦那が言うに、
「子は『かすがい』なんだよ。でもボクらにはそれが無いんだから、その分ふたりはもっと仲良くしなきゃいけないんだ。」
と答えたと言う。
いい男と一緒になったのね。

「いい男におなり。」

まぁいい男の定義も女の人によって違うだろうから、それはふわふわとした実体の無い「なにか」なのだから、掴めはしないのだろうけれど。

まぁあなたにとっての「いい男」になれればいいのだ、と思う訳ですよ。
 

2010年12月2日木曜日

板の上の愛ちん。

飯島愛が好きだったな。

飯島愛。90年代初期にアダルトビデオ女優でデビューして、すぐに人気者になったようだ。そのまま深夜のエロ番組に抜擢され、いつの間にか 〔AV女優→テレビタレント〕 にシフトした初期の成功例だね。及川奈央 とか 蒼井そら なんかがその路線の後継かね。
アダルトビデオ女優としては、ボクはなんにも興味が無かった。ボクはこの手のやつは「顔」と「スタイル」を重視するのだけれど、どうにも彼女の「垢抜けない」顔が好きになれなかったんだよな。胸は如何にも「整形です」って感じだしさ。
ヤンキー臭い雰囲気も苦手で、つまりは「どっちかと言えば嫌い」な存在だった。


ボクの家には90年代前半の5年間はテレビは無かったし(つまりビデオも)、仕事始めてからはゴールデン・タイムのテレビ番組なんて見る機会が無かったので飯島愛をいつから好きになったのか、明確な記憶が無い。

彼女はあまり知識が少ないようで、どんな権威のある人やモノに対しても同じ水準で接することができるのが強みだよな。そして非常に的を射た「疑問」を持って、堂々と本人に聞けたりしてさ。

オトナがなれない「王様は裸、と叫ぶ少年」の役回りを天然で出来たんだよ。

ミスター・タイガース掛布雅之とテレビに出て、掛布の昔の映像をみて
「掛布ちゃんって、すごい人なんだねー」
と吃驚していたのが印象に残っている。

もちろん直接は知らないので伝聞でしかないのだけれど、そういった表の顔とは別に裏では非常に人情深く、そして孤独だったようだね。うん、孤独の匂いがプンプン漂っているような人だった。


2007年3月に突然芸能界を引退する。
「テレビに出ているような人はみんな『板の上』で勝負できる。あたしにはそんなものが一切無い。勝負出来ない。」

引退してもブログはたまに更新されていたからな。みてたんだ。2008年の12月には、エイズ関連のキャンペーンに出席して、街中でコンドームを配っている映像が流れたりして。昔ながらの軽妙なしゃべりで街の人に接していて、凄く安心したものだった。
「ほら、かあちゃん、これ。あ、もう要らないか?」

そのほんの数週間後、クリスマス・イヴの日に彼女の死亡速報が流れる。
自宅マンションで死後一週間程度で発見。孤独な人は孤独に死ぬのかね。


今、彼女を思い出そうとしても、なにも浮かばないんだよな。
所謂芸能関係者って、音楽とか映画とか、ドラマのアーカイヴとか何かしらその人を回顧することが出来ると思うのだが。彼女、(AV以外では)何も残っていないよな。ゴースト・ライターが書いたベスト・セラー本があったか。読んでないけれど。

確かに「板の上」で勝負しないと、なにも残るものって無いんだな。彼女の言った意味がなんとなく分かって来た気がするよ。

そういう意味では、もの凄く「刹那的な」人なんだろうな。一瞬一瞬で放つ言葉が素敵だった。それだけの人。とても好きでした。多くの人に愛されても孤独なんてそれは不思議。
 

2010年11月30日火曜日

男と女を散らかしてみる。

なんだか突然ここのところ男と女の話ばかりだな。さて。


働いているとき、もう10年位前か、スタッフ引き連れて外仕事だったんだが、休憩時に皆で SPEED の話題になった。小中学生の女の子達で結成されたポップ・グループで爆発的人気を誇ったが、デビューから数年経ちその頃は落ち目だった。

「あの子達は、もう『女』になっちゃったから。」
そう女性スタッフは言い放った。
これを男が言っていたら(悪い意味で)あたり前感があったのだが、若くて奇麗めの女の人が吐き捨てるように言ったのが印象に残ったのだな。

「女になる」と「男になる」。
意外と言葉上はシンメトリーな配置のようで、実はまったく異なる現象なのでは?と今ふと思ったのだよ。
子供というものが「中性」的、ニュートラルな存在として、それに対する男と女というものの距離的配置が異なるのではないか。

女、というものは、子供時代の中性的な身体から成長により生理が始まり、胸が膨らむという大きな変化を経る。多分、生理用ナプキンやブラジャーといった外的なシンボルによっても自分が「女になる」ということに自覚的なのではないか。
そしてある時妊娠して出産し、乳が出ればもう否定も出来ない程に「女」を自覚するであろうよ。
胸が小さいことが自分の女性性の欠如ではないかと悩んだりしてね。そんなことあるかどうか知らないけど。

それに対して起る男の変化って、精通が始まる。声が低くなる。髭が濃くなる。これらって、女の変化と比べて、大したこと無くね?
別に幼少期からペニスは勃起するしさ。精通もティッシュ・ペーパーで処理出来るレベルで、生理用ナプキンだの生理痛で動けんだの、そんな大事じゃ無いんだな。
声が低くなって、「ああ俺ってダンディになったな。」とかあんまり思わないんじゃないの?一般的に。

女は中性である子供というイモムシから、劇的に身体/精神ともに女という蝶になるのだが、男は基本的にイモムシが巨大化するだけじゃない?

男が男として自己認識をするのは、「社会的な承認」が必要なのではないか。
洋の東西問わず、男には成人の儀式、「元服」とか「バンジージャンプ」とか、あるいは「徴兵」とかがあるが、女の人ってそういう「社会的な儀式」ってあんまり無いよね。男ってのは無理矢理そういった社会的要因で作り出されない限り出来ないものなんじゃないかね。

実家にいる女の子は「家事手伝いです。」と言えば「ああそう。」で済むところが、男だと「ん?ニート?」とネガティヴに捉えられるだろうよ。

男は結局、外に出て作られるものなのでは?と、ここんとこ引き蘢りのオッサンが偉そうに20分程で考えてみた。
女はフィジカルなもので、男はコンセプトなのかも知れんな。
賛同が得られるかどうかは分からんが。

しかしだりーな。

2010年11月27日土曜日

TAXMAN 。

ビートルズのメンバーで最初に出会っていたのはポールとジョージだ。
ポールが中学の授業をサボってタバコを吸いにいったら、そこで先にタバコ吸ってたのがジョージだったとのこと。ウマがあったのか、二人でヒッチハイクの旅とかして遊んでたらしいよ。
ビートルズの中で音楽を介在にしないで知り合ったのはこの二人だけだね。

ポールが歳上のジョンのバンドに入った後、ジョンに「友達にギタリストがいるんだ。」といって紹介したのがジョージ。でもジョンは乗り気じゃなかった。ただでさえ歳下のポールを入れたのに、さらに歳下のヤツが入るなんてさ。ティーン・エイジャの頃の年齢差は大きい。
まぁ結局ジョージも入って、ジョン、ポール、ジョージの3人組が出来る訳だが。
ジョンのアート・スクールの親友ステュを巻き込んで(ステュはベースなんて弾けなかったんだが)、出入りしてたクラブのオーナーの息子、ピートをドラムにしてビートルズの原型が出来る訳だ。ハンブルグ巡業で海の男達を相手に修行。

ステュが抜け(直後に死亡)ポールがベースにまわり、ホモのユダヤ人ブライアンがマネージャーに名乗りを上げてから精力的にデビュー作戦に出る。
なかなか困難だったが、しばらくしてなんとかEMI系列と契約が取れる。
そのタイミングでピートをクビにして、同郷のリンゴ・スターを迎え入れる訳だ。
1962年。

未だにピートをクビにした理由は分からんのだがね。
定説では「ドラムが下手だったから」なのだが、別にポール以外はリンゴも含めみんな楽器下手だからな。それに誰もビートルズの演奏能力なんて気にして無かったってさ。
ただ、ピートからリンゴに変わってグルーヴが変わったのは確かだな。パンキッシュになった。ピートってズッタタ ズッタってノリなんだよね。リンゴってダタタ ダタタ ダタタ ダタタなんだな。

1970年に解散。
なんで解散したのか。そりゃナンセンスな質問だよ。「オトナになった」んだよ。
そんだけだろ?
よくジョンとポールの不仲みたいに言われるけど、メンバー間で一番冷えきってたのはポールとジョージじゃないかね?しかもかなり早い段階で。

TAXMAN 。ジョージの曲。
ジョンとポールはソング・ライティング・チームだったのだが、ジョージはひとりでやらにゃならんかった。
1966年のある日、ジョージからの電話を受けて、ジョンはマイッタな、と思ったらしい。曲を書くのを手伝ってくれだとさ。
「でもジョージはポールに頼む訳にもいかないだろうから、俺が引き取るしかなかった。」

TAXMAN はジョージの曲で唯一アルバムのオープニング・ナンバーとなった曲。
コンプの利いた中で気怠いカウントから始まる。
ジョンのギザギザのギター・カッティング。
小刻みに空間を切り分けるリンゴのスネアのフレイズ。
ポールはこの曲で神懸かったベースと、リード・ギターを弾く。
そう、ポールの演奏は神懸かって、一体ギタリストのジョージはこの曲でなんの楽器を弾いたんだろう?
ジョージもこの曲のポールのギター・ソロはお気に入りみたいだよ。ジョージのギタリストとしての必然性は、マルチ・トラック・レコーディングの技術進化によって薄くなっていくのだがね。ポールがギターも弾くから。

先日、iTunes でビートルズの曲のダウン・ロードが始まったそうだ。
初動一週間の、最も売れた曲は Here Comes The Sun だったとのこと。
ポールの曲でも無く、ジョンの曲でも無く。
これは1969年にジョージがアップルの仕事をサボって、エリック・クラプトンの庭で作った曲。

 Little darling, I feel that ice is slowly melting
 Little darling, it seems like years since it's been clear
 Here comes the sun
 Here comes the sun and I say
 It's alright

ジョージが生きていたら、この結果をどう思ったんだろう?
なんとなく、よかったね、ジョージ。と言ってみる。

2010年11月23日火曜日

天気がいいね。

ネット上で7年くらい前かな?知り合った女の子が突然結婚したとのこと。実際に会ったことは3回くらいだと思う。
知り合った頃は明かに駄目な男に入れ込んでいたので、それを知っているおいらとしてはいい人と結ばれてくれて嬉しい限りだよ。

人はみんなそれぞれ違う暮らしをしているからな。なんとなく勝手に「自分が生きなかった暮らし」を他の人がしてくれているように思えて楽しいね。
本来経験していていいはずの多くを経験しないで暮らしている気がするな。
薄い。薄い気がする。向こう側が透けて見えるんじゃないかと思えるくらい薄い。仕方無い。「軽薄」が自分であれば、それを肯定的に捉えるしか無い。

人のいろんな話や考え方を聞くのはいいことだ。擬似的に脳内追体験をさせてもらってます。
あと何年間生きられて、どんな体験が実際に出来るのか。そんなのは限られてるでしょー。
君の話を聞かせてよ。それはいつでも楽しいよ。

2010年11月20日土曜日

ラビット。

David Bowie と 中村うさぎ で日々を潰している。

中村うさぎという人はだな。もろに経験主義者で、結構自分をとんでもない状態においてそこから何が見えたか?というのを考察し読者にバカバカしく伝えてくれるので面白いのだよ。

  買い物依存/ホスト狂い/整形狂い/デリヘル嬢体験

などを通して、自分は何が欲しかったのか、そして何を得たのかということを伝えてくれるのだな。それらの体験を通して自分とは何かを確認してるのね。

ただ、もし読むなら一話の尺の短いエッセイ集のようなものを勧めるね。尺が与えられるとクドクドと面倒臭いトーンで書き連ねる癖があって。多分実際に会ったら、面倒臭そうだ。

彼女の遊び場は二丁目で、友人の多くはゲイ。ちなみに旦那はゲイだし、マツコ・デラックスを世に出したのも彼女ね。
で、彼女はノンケの男を前にすると妙に構えてしまうらしい。強烈な男性嫌悪があって、随分と過剰に男というものがヒドいものかというのを語り、それに対する自身の女性性みたいなものを追及しているのだな。

それが過剰にいって、自分の「女」という部分にまだ商品価値はあるのか、と疑問を持ってデリヘル勤めをしてしまうとかね。
友人男性に「客に肉便器のように扱われることになる」と忠告されたものの、実際に体験すると「客は自分を人間として大切に扱ってくれて」「それ以外の男達は自分をとても蔑み性的に侮辱するような態度を取るようになった」とのことだ。

なんだかヤな話だな。

でも結構時代も変わって、彼女の嫌う男性性みたいなのも若い人達の間では薄れて来ているのではないのかな。

おいらゲイでも女装家でも無いのだが、あんまりその手の「男臭さ」みたいなものに関心が薄い。
とか書きながら、実はそういう部分が薄い「フリ」をしているだけなのでは?なんて思考を反芻してみたりもする。基本的に「オンナ大好き」だしな。

あんまり既存のルールでは巧くボールを扱えないから、自分のルールの中でひとりで暮らしているのかも知れん。
そうすると、他所の女の子が入ってくることも無くなる、と。
道理でモテない訳だ。

といつもの結論で終わる。

2010年11月18日木曜日

こどもはもらっちゃってもいい。

なんだかもういろいろ麻痺しちまったよ。

さて。西原理恵子の漫画の中で、鴨ちゃん(元夫:故人)がサイバラさんに
「こどもってさー、もっと簡単にもらっちゃってもいいんだよなー。」
と言っていた。養子の話ね。世界中の孤児を、引き取って育ててもいいんじゃないかって話。
なんか、欧米のセレブが各国の孤児かなんかをぽこぽこ養子にしている話も聞くね。ちょっとケースが違うが、MJ の子供って、実際血縁はあるのか?

養子って、いまいちピンと来ないんだよな。「コインロッカー・ベイビーズ」は養子の兄弟の話だよな、村上龍。その中でくらいでしか知らない。コインロッカー・ベイビーズは、折角養父母が育てるのに、二人とも出てっちゃうんじゃなかったかな?

んでさ。自分と血縁の無い「子供」を、「子供」として愛せるのだろうか?
とか思ってみたのだが。
しかしさ。「親戚」って概念もさ。「伯父の嫁」とか「義弟」とかって、今気付くとおいらと血縁無いよね。でも親戚だよね。
「親戚」って、血縁を中心としてはいるけれど、実際は「家」の縁の集合体なんだな。

そうか。「家」なんだ。おいらずっと「血縁」を大切にしているつもりでいたが、実は血なんかじゃ無くて「家」に執着していたのかも知れないな。
(普段「家」なんてどうでもいいようなこと言ってるくせしてな。)
そうすると「家族」って、血縁が絶対的に必要なものだろうか。少なくとも配偶者とは血縁無いしさ。そうすると別に子供と血縁なんて、無くてもいいのかね。
うちの「娘」のルビィちゃんなんて、血縁どころか人間ですらないからな。猫だから。
「血」を中心に考えるのなら、最も血の関係が近い「妹」なんて、おいらからしたら「宇宙人」みたいな存在。理解の範疇を超え過ぎていて。なんだかそうすると
血って、どの程度意味があるのかね。

ふーん。鴨ちゃんの意見も、今なんとなく賛同する要素を見つけたよ。


まぁおいらが養子をもらうことは無いだろうけれど。先に嫁探せ。

2010年11月16日火曜日

B&G 。

幼子を抱える、とある母親が
「息子は男の子の遊び、娘は女の子の遊びを自然に選択している」
ようなことを言っていた。

よく性同一性障害の方が、
「気付くと女の子のような格好や遊びに興味を持っていた」
と戸籍の性と逆のことをするようなことを言っているのを聞く。

そうすると、男性的とか女性的ってのは本能的なものなのかい?
例えば男女含む新生児を、すべて男性か女性の片方の大人だけに接触させて成長させると、どちらかの性に偏った人格になるってことはないのかな?後天的影響で。

こういうの、ジェンダーっていうのかね。あんま詳しく無いんだが。
おいらゲイでもオカマでも女装家でも無いんだが、あんまり社会的な男性的役割というものに対して関心が無いのだな。面倒臭い。


非常に、人格が「先天的」なのか「後天的」なのかに興味がある。
多分、これは一生考え続けるだろうな。答えは見つからないのだろうが。
「自分」というものが、産まれ落ちる前から決まっていたのか、環境によって作られたのか。
(いや、両方から影響受けてるのは当然だけどさ。偏りがあるのかってことよ。)
結構ね、この問題がおいらの中で大きな領域を占めてるのよ。告白するとね。
何故かまでは言わんが。

まぁでもこういうことを延々と考えていると、副産物としていろいろ産まれるからいいよ。思考を拡散するのが得意なのだな。
拡散された末端は、根っこからかけ離れていて、それはそれでちょっと複雑なフリをするにはね、便利だよ。ふーん。


【追:性差が先天か後天か、ということの研究について記述あり】
http://jack4afric.exblog.jp/14592601
 

BoB 。

たいしたこた書かない。さらっとね。ほんとだよ。

なにを思ったか、昨日 Bob Dylan をきこうと思って、いや正確には Like A Rolling Stone をききたくなって、CDラックを漁り、その曲収録の Highway61 Revisited を取り出せばいいものの、横の Blonde on Blonde を取り出してしまった。

Highway61 Revisited 1965年
Blonde on Blonde  1966年

それぞれ彼の6枚目と7枚目のアルバム。両作とも Dylan の全盛期の作品という世評ね。両作とも大傑作扱い。
この前の5枚目のアルバム、Bring It All Back Home から「フォークのプリンス」だった彼が「ロック」をやり出したんで、大騒ぎになってたところ。
当時はフォークは「良識のある若者」のため、ロックは「コドモのお楽しみ」みたいな意識が聴衆にあって、トンデモナイ事件として扱われたんだよ。


ボクさ。どうも Blonde on Blonde が苦手でね。というか、Highway61 が好き過ぎて、その姿を追ってしまうのだな。
Highway61 は、もの凄いテンションで辛辣でグロテスクな言葉をまき散らしながらバック・バンドと共に疾走する感があって。この頃の写真のサングラスとモッズ・スーツの彼が最も尖った頃だと思うのね。
かつて驕っていた、そして今落ちぶれた女に対し、

 アンタはもう透明な存在で
 隠すべき秘密もありゃしない
 どんな気分だい?
 家がどこなのか分からないってのは?
 誰にも知られてないってのは?
 転がる石みたいだってのは?

なんて言葉を投げつけるサマがさ。破壊的だよ。暴力的だよ。

で、次作じゃないですか。Blonde on Blonde 。
なんだか怠いんだよな。そんなにテンション高く無いんだ。演奏が。ミクスも、ちょっとヴォーカルが浮いてるように聞こえる、ボクの耳には。
ボクは英語が聞き取れないので、歌詞もあまり分からないんだけれどもね。

Rainy Day Women #12 & 35
Just Like A Woman

の2曲は好きだな。
アルバム冒頭の「雨の日の女」は、欧州の猥雑な旅芸人の移動みたいな雰囲気が素敵。「皆、石打たれるべきだ。 = 皆、ラリるべきだ。」って歌詞もなんだかわけ分かんなくていい。

「女の如く」は、

 彼女はまるで「女」みたいにとらえる
 彼女はまるで「女」みたいに股をひろげる
 彼女はまるで「女」みたいに痛みを感じる
 でも、まるで「少女」みたいに泣き出すんだよ

って歌詞がいいね。でもこれは「曲」が好きなんであって、このアルバム・テイクが好きな訳じゃ無いな。ライヴ版でもっと好きなテイクがある。

ってな訳で、Blonde on Blonde の魅力が分かりません。
人から説明されても分からないんだろうけどな。誰か教えてよ。

ん? オチ?結論? だからたいしたこと書かないって言ったじゃん。
 

2010年11月7日日曜日

ミセス・ロビンソン。

ダスティン・ホフマンが好き。あの過剰な演技が。

でも俳優で一番好きなのは、マルチェロ・マストロヤンニだけどね。もしボクに嫁がいて、彼女がマストロヤンニと一晩過ごすことがあったなら
「よくやった!」
と言ってワクワクしながらマストロヤンニとの一夜のことを聞き出すだろう。彼はどんな風に妻を口説き、どんな食事に誘い、ベッドの上ではどんなだったのか?
もう、それはワクワクするよ。どんな極上の映画よりも魅惑的だろう。

で、なんだっけ? ダスティン・ホフマンか。
「マラソンマン」とか「パピヨン」とか。「トッツィー」「レインマン」ね。
「クレイマー、クレイマー」は観てない。「真夜中のカーボーイ」は、あらすじを眺めると観たような気がするんだけど、観た確信が持てない。若い頃ミァ・ファーロウと出てるのも観たな。

まぁでも彼の出世作は「卒業」(1967年)だよねぇ。
ボク、これ好きなんだよ。人によってどう解釈するのか分からないけれど、ボクはこの映画の「救いようの無い」ところが好き。


【あらすじ:ネタバレだよ】
大学を優秀な成績で卒業して実家に帰省していたベン。彼の卒業を祝うパーティーが自宅で催されるが、彼はなにか「虚無感」に取り憑かれている。
同時期に帰省していた近所のエレーンとのデートを勧められ、そのまま気乗りのしないデートをするが、やはり満たされない。
ところがある日、エレーンの母であるミセス・ロビンソンに誘われ、そのまま人妻と情事を重ねてしまう。
ミセス・ロビンソンとの関係がばれ、すべてを失うベン。学生生活に戻ったエレーンを追って彼女の住む街に行くが、当然相手にされない。ふたりの誤解は解けないままだった。
ある日ベンはエレーンが学校をやめ、男と結婚をすることを知る。
結婚式当日、ようやく教会に辿り着いた彼は、教会の扉を開け放ちエレーンの名を叫ぶ。ベンに駆け寄るエレーン。花嫁を奪い取ったベンは、そのままエレーンと共にバスに乗り込むのであった。



これ一見ハッピー・エンドなんだけどさ。どうみてもボクには救いようの無い話に思えるんだよな。

・理由無き虚無感(-10)
・約束されていた将来を棒に振る(-10)
・家族/近隣の人々との信頼関係(-10)
・エレーン(-10)

マイナス、40点。 最後にエレーンを奪い取って、マイナス10点分は取り戻した。でもさ。大半の他のマイナスは残ったままじゃね?
なんかひとつのことをやり遂げた充実感で満たされた気分になっているだけで、実は根本的なことの解決はなにもされていないでしょう。

なんだかそんな「救いようの無い」感じが、ボクは好きなんだよな。
幸福そうなエンディングが、とても怖い皮肉に思える。


音楽は、サイモン&ガーファンクル。
映画用に作った短いフレイズを後に発展的に展開してシングルにした曲が
「ミセス・ロビンソン」。1968年のグラミー賞受賞曲。
彼女に対して、幾分皮肉めいた口調で語りかける男の台詞。

詞中に、ジョー・ディマジオが出てくる。ニューヨーク・ヤンキースの、走攻守揃ったスーパー・スター。
歌は、既に1951年に引退した彼の影を今でも追うミセス・ロビンソンを皮肉る。

グラウンドの外でも紳士として知られたディマジオは、1954年にマリリン・モンローと結婚。しかし本来スーパー・スターであるはずの彼が、妻と いると妻ばかりが取りざたされる状況に嫉妬したのか9ヶ月で結婚生活が破綻。人格者であっても、そのプライドが許さなかったのだろう。
モンローの死後ディマジオは彼女の葬儀を取り仕切り、生涯に渡って週に2回彼女の墓前にアメリカン・ビューティ(薔薇)を捧げたという。

ディマジオが1999年に亡くなると、ヤンキー・スタジアムのグラウンドにポール・サイモンは立ち、彼のためにミセス・ロビンソンを歌い捧げた。 


http://www.youtube.com/watch?v=DRlRlS7uZDw
 

2010年10月30日土曜日

手の甲。

夏の間床に転がした段ボール箱がお気に入りだった猫が、最近はベッドの上でよく寝ている。寒くなってきたのだな。
ベッドでぼけっと自分の手の甲を眺めると、なんだか細かい皺が縦横無尽に網のように走っている。
「なんだか年寄りの手みたいだ。」
以前年上女性に手を差し伸べたら
「なにあんたその白魚のような指は!」
と訳分からん理由で怒られたもんだったが、今見れば年相応に老化している。いいことだ。
The Byrds の5th Dimension をベッドに寝そべりながらかける。1966年特有のザラついたサイケ感が素敵。今かけているのはリマスター盤だが、初回購入したのはモコモコの音のアメリ カ盤だった。それは19の頃、渋谷のタワー・レコーズで買ったものだった。
渋谷のタワー・レコーズって1990年当時はまだひっそりと宇田川町にあったよな。浪人の頃飯代浮かしてCD漁ったもんだ。
たった20年前のことなのに、世の中は今よりももっと単純だった。
あ の頃から自分の頭の中身はあまり変わっていないが、まわりの世界は凄い勢いで複雑になって行く。オフィスのOA機器や家電は操作が複雑になる一 方だ。株式市場の光景は、当時と今では激変。無数の男達の怒号に似た叫びの光景も、今はPCスクリーンを眺める静かなものとなった。人が叫んで扱えるレベ ルを超えて複雑化してしまったのだろう。雪印も山一證券も第一勧業銀行も無くなった。見慣れないカタカナ名の会社が襟を立てた青年社長の得意気な顔ととも に現れては消える。ボクの働いていた会社は、インターネットの出現と共に仕事の中身が激変し、売上も落ち込んだ。
たった20年前のことなのに。もうきっと「単純」には戻れないのだろうな。
郷愁と言えば、それで片付くのかも知れないが。
しかし、その間、人間が複雑になったのかと言えば、そうは言えないだろう。
当時も今も男と女のセックスの中身は変わらない。愛の告白の台詞だって、使い古された流行のフレイズを昔から繰り返し再利用しているだけだ。
確実に言えることは、ボクの手の甲の皺が増えた。大学生の頃タバコで焦がした火傷の跡がまだ残っている。そして当時と同じロックのアルバムを聞いて、女の子の扱いは不器用なままだ。
それがいけないことなのかどうなのかは、実はよく分からない。
 

2010年10月28日木曜日

ロバ耳と結局セックスと女性作家。

王様の耳はロバの耳

そうは言えないから、その衝動を別の言葉に置き換える訳だ。

「天婦羅喰いたい。」
「いいお天気ですこと。おほほほほ。」
「わたしって、やっぱり奇麗よね。」

いろいろ言えることと言えないことがあるってことよ。全部赤裸々に言える訳じゃ無い。



ここんとこここに書こうと考えた話題。

「猫をレイプ。」
「セックスにおける男女差。」
「マザコンについて。」

「猫をレイプ。」については、実際に獣姦の話じゃ無いし、じゃあ爽やかな話題かと言うとそうでも無いし。なかなか正しい描写が困難で、かつ大きな誤解を与えかねんために断念。これは、この衝動を別のことに置き換えるとなんかのネタに使えそうだ。

「セックスにおける男女差。」こんなのさ、別においらが考え無くてもきっと誰かが考えて素敵な解決をはかっているよ、きっとどこかで。

「マザコンについて。」は、マザコンの定義が分からなくなったので却下。正式な心理学用語じゃ無いようで、幼児期のような保護被保護関係の成人母子の俗称なのかなぁ?考えるといまいちピンと来ない。

まぁそんな感じ。

セックスね。
若い性衝動の頃が過ぎると、なんだかこれは「孤独で無いこと」の確認作業のような気がするね。これはボクの現時点での結論。
人によっては「冒険」とか「探求」とか「スポーツ」とか、いろいろ定義出来るのかも知れませんけどね。
ボクは、「孤独で無いことの確認作業」。
なんだかいい人っぽくてヨクね?



することもないので、大っ嫌いな女性作家の小説を読んでいる。
その方のエッセイを目にすることが多く、読む度に嫌悪感を募らせていた。でも作家のことをその作品に触れる前に「嫌い」というのは失礼だと思い、古本屋で文庫を以前買ったんだ。14頁読んで、その時は反吐が出そうで放棄した。
まぁ暇つぶしに読み進めてみるよ。感想は後日。

「女というのはたいていそうであるが、自分の披露宴が終わった後の、女友だちの会話を想像して、相手を決定するところがある。」

まぁ例えば上のようなフレイズが出て来るのだが、事実かどうかは別として、こういうことを表現しちゃうところとか嫌いなんだよな。
実際のところどうなんだろう。結構時代要因が濃いフレイズのような気もするが。

しかし仮に自分が結婚して、妻の女友だちの披露宴後の会話を想像したら、萎えたよ。
ボクも一生結婚出来なさそうだw

2010年10月20日水曜日

ことばあそび。

あんまりいろいろと考えるのは好きでは無い。元々考えること向きの頭では無いのだな。「腹へったー」「ねむいー」「おっぱい」だけ言ってりゃ済むような国から出稼ぎに出てきただけなのだ、貧しくて。

さて。「嘘をつかずに人を欺く方法」。
例えば簡単な例として、真っすぐ道を進むと広大な森にぶちあたるとしよう。

「この道を真っすぐ行くと、森があります。」

これが比較的正しい表現だとする。ところが

「この道を真っすぐ行くと、木があります。」

こう言うと、全く嘘はついていないのに随分と印象が変わります。なんか誤解を与えますね。
玉子が嫌いなコウジ君のことを聞かれて、彼を好きな女の子に、

「彼は玉子が嫌いなんだよ。」

と言えばいいところを

「彼はゆで玉子が嫌いなんだよ。」

と言うと、彼女はコウジ君とのピクニックのお弁当に玉子焼きを持ってくるかもしれません。デート台無し。でもわたしは嘘ついてないもんね。
もちろんおバカさんが前者の表現を思いつかなくって後者の表現をすることもあるけどさ。意図的に後者の表現をするってのも、あるのだよ。

言葉ってのは使いようだよ。まぁこんなことばかりやってると地獄に堕ちるけどね。



以前 杉田かおる がテレビに出ていてさ。凄く派手なカッコウをした人のことを

「まるで詐欺師みたいじゃない。」

と言った。まわりの人達は、

「詐欺師がこんな派手なカッコウしていたら目立っちゃってしょうがないじゃないですか?」

と言うと、杉田嬢、

「詐欺師ってのは派手な服や派手な宝飾品をするもんなのよ。そうすると人の印象は服や宝飾品ばかりが残るじゃない。顔とかは覚えられないのよ。」

流石にこれはビビったね。巧み過ぎるし、それを知っている杉田嬢も凄いね。

だからさ。派手な奴らは何かを「隠して」いるのだよ、きっと。



うーん。人生経験が乏しくて書くことがなんにも無い。39年も生きていながら、昨日と今日と一昨日の順番を入れ替えても大差無い日々だ。それを文字化しているから、いつも同じことばかり書いているな。

  まるで僕らは何も見えない暗闇の中で声だけを頼りに
  お互いの指先を探り合っているみたいだった。

という出だしで恋愛小説でも書こうと思ったが、恋愛経験自体がほとんど無いのでそんなもの書けないことに気付いた。

「2001年宇宙の旅」が傑作になったのは、宇宙モノになんてなんの興味の無いキューブリックが撮ったからだ、とは偉い人たち皆言うことだよね。「宇宙モノが好きな奴が撮った宇宙モノ映画なんてみんな下らない」と言われるね、わたしは知りませんが。
「スター・ウォーズ」は、黒澤のチャンバラ映画を撮りたいというルーカスの執念だからな。だから一作以降はただの「スター・ウォーズ」の焼き増しになっていくんだろうな。



さて、たった今ツイッターで誰かが呟いた言葉がわたしを刺激した。
「子供向けのポルノ」だってさ。

・世の中には子供向けと大人向けがある。
・ポルノに子供向けは無い。
・ポルノは大人のものである。

こんなところが言外の前提条件としてあるのかな?じゃあその上で「子供向けポルノ」について考察してみようよ。

これはいいね。この言葉を転がして、またしばらくは遊べそうだ。
 

2010年10月17日日曜日

裏切り。

時間を潰す方法も分からないので、家にあった短編小説集を引っ張り出す。このタイトルは15年以上も前から家にあるのだが、読んだことは無い。ついでに言えば、俺が買った訳でもない。
小さ過ぎる活字を追う。それは子供の頃会った外国人の回想から始まって、大学生の時にバイト先で知り合った女子大生の話になる。

「彼女は駒込の兄と暮らしていた。彼女によれば、一緒に暮らしているというよりは彼女がそこに転がり込んだとのことだ。彼女は父親とソリが合わなかった。」

ふーん。親とソリが合わない、というのは一般的なことなのか。
親というのは、少なくとも半分はあなたの「元」となっている人なんだけれどもね。兄弟とまでなると、ほとんど同じ人と言えるくらい近い存在のはずだ、遺伝子学的には。

でも意外と親とか、兄弟とは理解し合えないものだな。不思議だよ。

俺自身について考えると、またこれが手に取るように父親と母親のダメなところが混在して自分の中にあるのが分かる。笑っちまうな。
結局、父も母も自分で解決し切れなかった問題を子供に押しつけたのだろう。
まぁただこれについては多分一般的なことだろうから、それについてどうこう言っても始まらない。親譲りの負の遺産を、解決すべく暮らすのみだ。
なんだか厄介な問題を抱えた「自分」というものとこれからも付合わねばならないことを考えると、妙におかしい。
逃れられない困難には、楽しむ姿勢で挑むことが大切だ。

俺のわきで猫が寝ている。耳の先を指で弾く。ぴんぴん。ぴんぴん。
猫は面倒臭そうに目を覚まし、俺の手の甲を舐めた。

絶対的な信頼関係。これは何もしないで与えられたものではない。不幸にも、世の中には猫と長年二人だけで過ごしても「信頼関係が壊れている」というケースはあるのだよ。何故かそれを知っている俺は、自分の薄っぺらい愛情を、それでも目一杯注いだつもりではある。
猫なんかに愛情を注いだところで、何の見返りも無いのだけれどもな。猫への愛は一方的なもの。

まぁそれでも奴が俺を裏切らないという安心感を得られたならば、それもいいだろうよ。

俺を、裏切らないでくれ。
英語にすると、Don't Let Me Down ってところかな。合ってる?

俺はおまえを裏切らない。おまえは俺を裏切らないでくれ。猫に対して与えられるものを、しかし人に対して与えるという方が難しいのは不思議。


なーんてね。
ジンとウオツカとラムが同時に切れた。火曜日の夜まで禁酒しよう。
今日はいい一日でしたか?良かったですね。あなたの幸せがわたしの幸せです。

2010年10月13日水曜日

好き。

働いていた頃の話だが。

別の部署の若い奴で、体力はあるしいつもヘラヘラと笑っているし明るくて前向きなのだが、どうにも使えない男、というのがいて。
仕事が絡まなければ「いい奴」で済むのだろうが、仕事が絡むと苛つくだけなんだよな。まぁ端的に言えば「バカ」なんだが。

で、ある日突然社内でその男が結婚する(できちゃったらしい)という話を聞いて、おいらが発した言葉は

「あいつは、隙があるからな。」

だった。明確に覚えている。
その時認識したのだが、おいらのなかでは

「女に現抜かすような男は、隙がある奴だ。」

という図式が無意識の中に構築されていた、ということだ。
ふーん。

まぁ確かに自分でいうのもなんだが、30代大半をおいら「隙無く」過ごしたような気がする。
一日中愚痴や暴言や上司と喧嘩なんかで過ごしていても、「結局あいつに任せとけばなんとかなる」と思われてたから、なにやっても許されていたんだろうな。
あんまり隙がない。

まぁーあ今現在は、隙だらけだよ。ってか吹き抜けだよ。風がビュービュー通り過ぎてるよ。まぁそれは置いといて。

世の中「だめんず」好きというのがいてだな。人は「欠けた部分」というものが魅力になったりするものなのだろうな。
女性がモデルみたいな体型を目指したりするのに対し、男が好きなのはほんのり脂肪がのって小ちゃかったりする子だったりする。

「あの子は、俺が守ってやらないとダメなんだ!」

あ、そう。

この傾向は、なんなのだろうね?
弱い者を、守る自分が好きなのか? 男:勇者願望? 女:母親願望?
もっと「整った」人を好きになればいいのにさ、なんであえて欠けてる「弱い」人を求めるのさ?
とすると、あんまり人に愛情を注がないおいらは実は「最弱者」に位置づくのかも知れないな。実は弱過ぎて「他者を守る」まで気が回らないのか。知らんが。

とか言ってもな。

おいら強い女の人は、好きだよ。強い女の人の弱点を見つけるのが楽しいじゃん。嫌な奴だねぇ、相変らず。あんまり弱みを見せない人程、抉りたくなるね。宝探しみたいなもんだ。
ああでもキャリア・ウーマン型のタイプは、突っ張ってるように見えて結構安易に弱みを見せるから嫌い。マジメなんだけど単純な人が多いように思うよ。影で泣いたりしてさ。
それとは別のタイプね。ふとした寂しげな目が好きだな。

ああ、そうすると小さな目の人は、それを見落としてしまいがちだから好きじゃ無いかも知れない。なんじゃそりゃ。

2010年10月6日水曜日

モノクローム。

free as a bird がリリースされたのは1995年の暮れのことだった。24歳だった。生まれて初めてきいた the beatles の「新曲」だった。

単調でゆったりとした8ビートの上に、膜がかかったようなジョンの声がきこえる。鼓膜をザラついたスライド・ギターが掻きむしる。眼前の光景の輪郭は、線がぼやけはじめ、色彩は失われていった。
「モノクロのサイケデリックだな。」
そう思った。

その年の夏デスクに座って新聞を読んでいたら、ジェリー・ガルシアの訃報がほんの小さく、隅っこに載っていた。グレイトフル・デッドのリーダー。思わず声を出したところ、女は
「デッドなんて知ってるの?」
と呟いた。女からすると、お堅い「サラリーマン」はデッドなんて聞くもんでは無いと思っていたらしい。
女はビートルズでは sun king が好きだと言った。ずいぶんと不思議な選択だと思った。

季節はかわり暮れになり、リリースされた free as a bird のシングル盤CDを
「クリスマス・プレゼントだよ。」
と言って女に渡す。もう山頂で雪崩は始まっていたので、落ちる以外に選択肢は無かったのだ。

その頃、俺は音程をとりながらロング・トーンで叫び、ディレイで声を反復することに成功していた。なかなかいい感じだと思った。バックではアコースティック・ギターとコンガが鳴っていた。ギターはバート・ヤンシュ風だ。
まだしばらく「未来」はありそうだ。時間は多くは残されて無いが、悲観的になる必要も無い。それまでに、も少しですべてが手に入るのではないか?と思った。


年月を経て、予定していた未来なんてものは、もうとっくに消化しちまった。
今まわりを見渡すとなにも無く、それは殺風景で、しかし free as a bird だけはまだそのまま残っている。プレイヤーにかけると、いつでもその頃と同じように「モノクロのサイケデリック」な光景が眼前に広がる。

居残るものと、過ぎ去るものがある。free as a bird は残った。それはよいことだ。そう思った。
 

2010年10月1日金曜日

ピンク・ジン。

アンゴスチュラ・ビターズを2振り。ジンを60ml。
パティ・ボイドの伝記を読んでいたら、彼女の祖母が好んで飲んでいたそうだ。
祖母の香りはピンク・ジン。

これは、悪魔の酒だな。堕ちたいときだけ作る。
頭の中は歪に回転し、心は内と外を入れ替えて、口から外に飛び出す。インサイド/アウト。胃粘液は黄色く、触れるものを溶かす。
サイケデリックの昆虫は皮膚下で腐肉を喰い荒らす。ウジ虫は蛹となって悪意の関節をもった羽虫となる。その羽音は、鼓膜を羽根で撫で回す。乳首で体側を撫で回す商売女が、男の絶頂を見届ける前に首元を噛み切る。
緑の血流は床でピンクに変色する。色盲の弟は、意味が分からないと首を振る。緑色の渦は回転する。ただ、その回転が時計回りなのか、その反対なのか、幾重にもなった渦は起点と終点を、それは持ち合わせているはずなのに、あたかも無かったかのように、ただ存在するのは回転しているということ。
回る。渦。色は、色彩は意味を無くして薄れていく。モノクロに近くなったところで、母に尋ねる。色とは?
「色の名前に意味は無い。」
名前によって規定されないものは、区別を持たない。アイデンティティを失ったその塊は、ただ気紛れに回転運動に参加するだけであった。


というところで、酔いが覚めた。ピンク・ジン、一杯目。
 

2010年9月28日火曜日

なんとなく書き出したら同性愛。

動物の同性愛というのは、結構一般的らしいな。

おいらの女っけの無さ具合は有名なので、よく同性愛者の噂を立てられたもんだった。残念ながらおいら「肌の質感」と「肌のにおい」を重視するので男では満足出来ませんことよ。ってか積極的に男は嫌い。
20歳くらいの頃はよく同性愛者に狙われたなぁ。逆に今は狙われなくなったな。いいんだけどさ。

街で男同士女同士2人でつるんでるのって、実は他の動物の行動学的には同性愛に当たったりして(適当に言ってるだけだよ)。
そうすると女とも男とも一緒にいないおいらは、愛の無い生活なのねん。どっちにしてもモテネェんだよ。

朝、初めて中村うさぎ女史からツイッターの返信をもらったのだが、佐良直美の話題だった。30年前にレズビアンがばれて芸能界から消えた人。今なら考えられないよな、という話でした。

中村うさぎ女史の旦那は、ゲイね。だからあの夫婦にはセックスの関係は無い訳ですよ。それでも夫婦という関係が成り立つ、というのが面白い。「夫婦」という概念について、新しい可能性について呈示しているような気がする。

夫婦ねぇ。おいらは性欲の湧かない相手との夫婦関係というのはいろいろ面倒臭そうで嫌だな。夫婦って、なんだ?
うーん、中村うさぎ夫妻の関係にその答えがあるような、無いような。
 

2010年9月25日土曜日

交差点。

自転車にまたがって、気付いたら田端にいた。田端ってどこだよ?

道を走りながら、
「ああここ曲がったら迷っちゃうなぁ。」
と思いながらその角に吸い込まれていく。この癖は治らない。
だから、できるだけ身軽でいなくては。迷った時に、荷物は邪魔だ。
全部さようなら。置いていくよ、猫も。ひとりで強く生きるんだよ。

黙ってじっとしていると、気付かないうちに錘りが巻き付いていたりするものだ。そうすれば、身軽ではいられなくなる。

このまま山手線の外側へずっと外れて行くならば見た事の無い風景を見たのだろうが、そこまでのリスクはとらない。そんな小市民的なところがこの人の限界だ。

上野に出る。いつものような不忍池。いつものような。いつものように。
ストレンジャー・ザン・パラダイスの台詞。
「なんだ、こんな遠くにまで来た筈なのに、 見たことのあるような風景ばかりだよ。」

見たことの無い色。あなたが最後に「それまでに見たことの無い色」を見たのは、いつですか?

へんな交差点を曲がってしまったが為に、それまでに知らなかった通りを沢山通ってしまった。どれも見たことのあるような風景ばかりだった。

2010年9月17日金曜日

猫。

ちょっと嫌なことがあったので、真っ暗な部屋の床に寝そべってストロウベリ・フィールズ・フォエヴァを聴いていた。大きな音で。

嫌なこと、というのは、外的な要因ではなく、自分の中から湧き出て来た負の感情だ。自分の弱さを認めるというのは人間にとって堪え難いことではある。少ない酒で酔いが回る。

ストロウベリ・フィールズ・フォエヴァ。
かの地に行きたくて10年程前飛行機に乗った。おかげで、行きたいところが無くなった。出雲とストロウベリ・フィールドが俺の聖地だ。

それはさておき。

暗闇で寝そべると、気配を感じる。それは体側に近づく。猫。ルビィちゃん。美しき馬鹿猫。
目を閉じたまま、俺は奴の尻尾の先を、意地悪に掴んだ。そして、絶対放さない。

尾を拘束された奴は、抵抗を試みる。試みとして、俺の、腕を、なめまわした。


噛むでも無く。引っ掻くでも無く。奴は、なめる。
俺を憎んで、それでも俺の腕をなめる猫を不憫に思ったので、俺は手を放した。
誰に似たのか。馬鹿な育て方をしたもんだ。
 

2010年9月9日木曜日

もっと。

風が涼しいですね。最高気温は30度らしいですよ。30度と言えば充分に暑い温度なのに、35度が標準の生活を送っていると、もの凄く涼しく感じます。
環境というものに人は慣れるのですね。

岡崎京子の漫画で「幸福を恐れる者は幸福にはなれない」みたいな台詞があって、彼女の漫画ならば誰かの言葉の引用かな、と思いつつ、それは真実かも。
などと思ったり。
人生で唯一「幸福感」のあった頃、「ああ、これはもうこういう感覚は最後だな。」と思った。
言霊だな。次に「幸福感」を得たら、「もっと。」と思おう。

もっと、もっと。感覚が麻痺するくらい。


さーてと。今日は特別することはありません。逆ギレしたい。でもおいらがキレたところすら見たことのある人はいないだろう。感情を抑制するんだな。誰にも分からないように。
っていうか、感情があるのだろうか。愛情は薄いけどね。
 

2010年8月30日月曜日

陰惨っぽい話。

最近夜中にふと考えごとが始まって、しばらく寝付けなくなることが多い。

パタリロ!を枕元で読んでいて、正義とはなにか?を考える。
しかしなぜパタリロ?

正義とはなにか。
それは力である。
力とはなにか。
武力/経済力/自己正当性を論ずる能力。
それぞれ重視比率は違う。前者がより有効。
歴史は勝者のものである。
力のあるものが勝者になるのである。
正しい敗者、誇れる敗者になるのは困難だ、正しい勝者も困難だが。

なんだか正義なんて、どうでもよくなるな。
仮面ライダーやウルトラマンはなにと闘っていたんだっけ?
スーパーマンは地球人に比べれば相対的に力を持っているけれど、産まれた星では標準的な能力なのでは?
正義の味方って、なんだったんだろう?

では力の無いおいらはどうするよ? 
道化にでもなるのだな。

しかしなぜパタリロ?
とか考えていると、眠れなくなる。ほとんど意味が無い。結論があっても無くても有効ではないから。
眠れなくなるという事実だけが残る。



30年前、水泳大会の休憩時によその家族が持ち込んだ漫画「鉄腕アトム別巻1」の中の一篇を読んだのが脳裏に焼き付いて離れず。昨年だったか、Amazon で購入した。

【 アトムの最後 】

これを子どもの頃に読んだのは、多かれ少なかれおいらの人格に影響してるんじゃないか。

「これを描いた時代は急進的な学生運動がはやり、漫画や劇画の内容も暗くてニヒルなものが多く、それらの影響を多分に受けた作品です。いつ読み返しても、陰惨で、いやーな気分がします。アトムはほんのちょっと登場するだけですし、これがアトムの全作品の最後だとは思っていません。」

とは作者手塚治虫の弁。
そんなこと言われてもなぁ。おいらの頭に30年も残っちまったよ。

んで。ストーリーの主流とは関係無いが、子ども向け漫画で子どもに対する恐怖心を植え付けるのってさ。

実は親が「悪」だった

ってのが怖くない?
このパターンって当時よく使われてるよね。母ちゃんがデーモンだったとか蛇女だったとか。
子どもは家にしか拠り所が無いからさ。それが無くなるってのは、マジで恐怖だよ。
うちの鬼母なんかと暮らしてたら、こういうの結構リアリティあって怖かったもんだ。

とか言ってると、最近おいらのそんな戯れ言が洒落にならんような「鬼」が沢山実在するようだな。

陰惨な気分になるね。
 

2010年8月27日金曜日

今宵はきみと。


昔、知り合いの編集者が

「オカルト雑誌にいた頃は世を挙げてオカルトブームだと思ってたが、ゲーム雑誌に移ったら世を挙げてゲームブームで驚いた」

と言ってた。人は自分の周囲の小さな世界を普遍化しがち。
自分がいるのは非常に偏った小さな世界に過ぎないという認識を忘れがち。

↑↑

というのが敬愛する中村うさぎ女史のツイッタで発信されていた。
(極々一部改変)

まったくもって同意するのだな。

「どうやら自分の考えというのは世間一般のマジョリティではない」

ということに気付いたところからおいらは始まっているので、この辺は敏感だ。
そしてまた偶然にも「心理学」とか「マーケティング」とかと20年あまり関わってしまったので、その手の思考はさらに強化されたようにも思う。 マイノリティの視点からマジョリティを把握するのだな。

ここが鈍いタイプの人間が受入れ難い。まぁおいらも「正解」というものは分からないのではあるが、少なくとも

「自分の答えに対して常に疑問を持って、自分なりの『肯定的見解』『否定的見解』を反芻しながら持論を形成する」

タイプの人間でないと、付合っていて浅さを感じて鼻で笑ってお仕舞いになりがちだ。

「自分が正しいと思った時点で人間の過ちが始まる」

ものだと思う。 という訳で今日もおいら過りまくってます。



AKB48という娘たちも、流石にここまで露出が多いと接する機会が多くなるな。
新曲のタイトルが「ヘビーローテーション」か。言葉の選び方が巧みだな。
いきなりマイナー・コードのサビから始まってポップな平メロってのはBeatles
のShe Loves You と同じじゃないか。

女子高生の制服みたいな彼女らのコスチューム、屈託の無い笑顔(それは作られたものかも知れないが)は、そのまんまファンの

「頭の中で作られてはいたものの、決して存在しなかった自分達のハイスクール・ライフ」

を体現しているのかもな。
重要なのは、それは「決して存在しない」って認識だ。甘酸っぱい高校生活、なんてのはドラマや漫画の中にしか存在しないんだよ。
ほんの少しだけ夢を見たら、現実に帰らないと。夢の中だけで暮せはしないのだから。



そろそろキミも意地張ってないでおいらのモノになり給へ。結婚しよう。



という訳で、「今宵はきみと」。
Bob Dylan の69年の曲だが、Jeff Beck Group の映像が見つかったので。
元曲も、このベック版も大好き。

http://www.youtube.com/watch?v=A8CoC-S1DY4

いい夢見てくださいね。
 

2010年8月24日火曜日

夏は何回来るのでしょうね。

暑いのですが、暑いんですか? なんだか毎年毎年「異常気象」という言葉を聞くようで、「いつが標準だったのか」忘れてしまいそうです。

ちなみに今年の春は、「異常に寒かった」です。覚えてますか?

うちのエアコンはいつも30度以上の温度で設定していますが、稼働しっぱなしです。扇風機も稼働しているので、体感温度はもうちょっと低いですがね。でも室内の温度計は、きっちり30度を示しています。

次ぎに来る冬は、寒いそうですよ。
そして来年の夏には、また全部忘れていそうです。
「今年の夏は暑いな」
と、数十回繰り返して、いつしかそんなことも思わなくなるのでしょう。


えっと、何が言いたいんだ? もうちょっと続けてみます?


3歳の猫がいますが、まぁあと生きて10年少しくらいかな。その後は、蠍とか、蛇とか、そんなもんでも飼おうかな。
なんて夜中寝ながら考えていたら、猫が死んだ時のことを考えてしまって悲しくなった。

猫の名前を呼ぶ。来ない。もう一度呼ぶ。来ない。
もう一度、大きな声で名前を呼ぶと、奴はおいらの天井近いベッドに昇って来た。
手足を押さえつけて、抱きしめるとグルグル言っている。

猫は、いつもおいらを求めているのだが、かと言って何をしてあげたらいいのか分からない。
でも、(利害関係以外で)人から何かを求められて、応えることが出来ているのだろうか。

でも「求める対象となる人」と「応えようとする人」がいさえすれば、成果とか、そんなものはちっぽけなものかも知れませんね。

そういう相手がいる、ということが重要なのかも知れません。
 

2010年8月9日月曜日

サム・ガールズ。

ふと、気になったので「彩」をかける。

言わずと知れた、世界で最も贅沢な作り方をしたポピュラー・ミュージックのアルバムだ。しかし今まで、一度もいいと思ったことは無い。
こんなアルバムよりは、「Led Zeppelin」や「Please Please Me」の方が遥かに好きだ。

でも、ある日突然このアルバムを「素晴らしい」とかいい始めるのかな。
きっと、痩せ飢えた野良犬の最後の犬歯も抜かれる時のことだろう。
歯のすべて抜けた野良犬は、飢え死ぬのを待つだけだ。


長いことベッドで過ごしている。シーツが夏の脂を吸っている。
ベッド・マットも、羽毛布団も水洗いした。でも肌に触れるシーツは、ほんの数日で脂を吸ってしまう。
一瞬、蛋白質の古びたような臭いがした気がした。もう一度嗅いでもその臭いは感じられなかった。

10数年「ステディ」な関係の人間がいないのだが。
これは自分を客観視する上で、大きな欠落のように思えた。今。
鏡みたいなもんだな。

散々わたしの総てを振り回したオンナは、わたしのことを
「あなたはカテゴライズ・フェチなのよ。」
と皮肉っぽく言った。短い期間で、よくそこまで「的を射た」表現でわたしを言い表したものだ。

わたしと共依存関係に陥ったオンナは、わたしと離れたくて散々わたしのことを悪く言った。わたしの嫌がる言葉を知りつくしていたのだろう。
結局、その努力虚しく彼女からはわたしを放棄出来なかった訳だが。

理由も無く消えたオンナは、別にどうでもいいんだ。わたしを見限った「理由」だけ教えて欲しい。


鏡だな。相手を通して、自分のことを知る。
10数年、人を通して自分を見ることが無い。「自分だけを映し自分だけを見る」鏡が、曇っていると自分を大きく見誤る。というか、誤っているから今こんな生活をしているのだろうが。

しかし、常に自分のことしか考えていないのだろうね。それは大きな欠陥だ。
まぁいいや。今は、すこし世間に甘えよう。鏡が欲しい。
 

2010年8月5日木曜日

I'm So Tired。

いや、あまり書く事が無い。
ん?「書けることが無い」という方が正確かな。
いろいろベッドに籠りながら、考えごとをしている。

I'm So Tired を東京の鉛色の空の下、何ヶ月もやってるような感じ。
外部との接触も無いからさ。ひとがいてくれるだけで有り難い。


一旦、リセットしてもう一度「流れに身をまかせる」ことにしたのだが、どの川に飛び込むかを悩むんだよね。
川で流れてる方が楽なんだが、川によっては魚の「獲れる川」と「獲れない川」があってさ。
どうでもいいから飛び込んじゃえ、という気もしないでもない。
「獲れる川」は泳ぐのに体力がいる。
かと言って。「獲れない川」も実は結構疲れるんだよな。

一旦岸に上がってから川を眺めると、なにやんのも億劫になるんだよね。

元々、環境についてはあんまり悩みたく無いたちなんだ。
とりあえず川に飛び込んで、それからどう泳ぐのか考える。

ぜんぜん関係無いが「適当に女の子と結婚して、それからどう愛するかを考える」ってのも性格に合ってるかも、なんて思いだした。そうでもないと誰も愛さずに終わりそうだ。
うちの猫も「一緒に暮らす」のが目的でうちに来て、良好な関係を築いているからな。

おいら、結局どうとでもなるんだよ。だって神さまがついてるから。
どんなクジを引いても、外れないんだよ。引いたモノが、自分にとっての正解なのだ。


なんだか何書いてんだかヤバい人みたいだな。あんまり否定しないが。

冗談か本気か、さっき女性から
「あなたは魅力的だから本気で感じてしまいそうで恥ずかしい」
と言われたのだが。

そういうのを冗談だと思わず本気だと思うくらい、おいらは楽天的だ。
きっと長生きするよ。

意外かも知れんが、おいらの原動力はもの凄くでかい「肯定力」だ。
楽天的なんだよ。
 

2010年7月31日土曜日

季節。

実家のごく近所に母の旧知の方がいて、母と同い年なのだが、お子さんが二人いた。
うちは子供(というか、おいら)が出来るのが早かったので、母と同い年でも上の子♀がおいらの6つ下、下の子♂は8つ下くらい、、、だったと思う。

おいらが中学校のころは頻繁に顔を合わせていたが、それ以降はあまり会うことが無かったな。最後に会ったのは、おいらが浪人明けで大学に入る直前の春、下の男の子に国語を臨時家庭教師として数日教えてあげた時だ。約20年前だよ。
その後、おいらは実家に帰っても家から出ることなんて無いからさ。近所の連中がどうなってるかなんて、知りはしないのさ。

ひょんなことから、その下の男の子をネット上で見かけたのだが。なんだか劇団の主宰をしているらしい。
そういえば、もう彼も30くらいかな? おいらの中ではずっと彼は5、6歳のおかっぱ頭のママなのに、実際は立派に髭をたくわえて、意志の強そうな力のある眼をしていた。

もしも彼と会うことがあったら、おいらは彼に5、6歳の彼を期待してしまうだろう。多分、というか確実に、それは彼の人格を捉えていないものだろうが。
長く知る人で頻繁に会うことが無ければ、意外と人は人の変な「時点」を記憶してしまうことが多いような気がするな。

いつも思うのだが、なぜ遺影はその死の近い時期の写真なのだろう?
その人が望む人生の季節の写真というものがあるのではないか?

おいらは赤ん坊の頃のモノクロの写真を遺影にして欲しい、と切に想っているのだがね。

2010年7月14日水曜日

キャンディ・セッズ。

世界から不要の烙印を押されたので、ぼけっとベッドに横たわる。
猫がよって来て、わたしの腕を二回舐める。

幼児が母に求める愛は庇護を求める愛だが、大人の愛の関係というのは「ギヴ・アンド・テイク」だ。もしあなたの恋人との関係が一方通行のものだったら、そんなものは即刻解消すべきだ。

猫がわたしに示す愛は「庇護」を求めているのか、「ギヴ・アンド・テイク」なのか。どっちにせよ、猫がうちにいるのはわたしの「ギヴ(与える)」の練習なのだから、どちらでもいいことだが。

あまりになにも与えずに生きて来過ぎた。かと言って、与えられて来たのかというと、そこに関するアンテナは鈍感だ。沢山与えてもらっているのだろう、実際は。
しかし、いつでも渇いている。

CDのトレイには、ずっとヴェルヴェット・アンダーグラウンドの3rdアルバムが入ったままだ。それはオカマの独白からはじまる。

「あたしの身体が憎くなってきた。」

別にオカマに言わせなくたって、自分のことなんてみんな嫌いだ。人はどこかしら欠落しているものだ。
しかし欲しいものが全部手に入ったのなら、それはそれで別に生きている意味も無いだろう。

2010年7月10日土曜日

ジョン・レノン/怒りの涙。

※ 超オタクネタ。JOHN LENNON


いや、数週間前から知ってたんだけど。あまりにも怒り過ぎて書く機会も。
http://www.emimusic.jp/st/johnlennon/news/

秋に、ジョン・レノンのソロアルバムの

 「オリジナル・ミックス」&リマスター

が発売されるらしいね。


経緯を知らない人の為に説明すると、
ジョンのCDは80年代末にCD化開始。それが、2000年から

 「リミックス」&リマスター

が発売され、こちらの盤に移行。
「オリジナル・ミックス」は流通から無くなった訳です。
怒怒怒怒怒怒怒怒

オリジナル・リリースからは大きく編集が変わってしまった音しか無かった訳ですよ。
CDでは。ここ10年間。


以下は、おいらが Amazon のレビューに投稿した
アルバム imagine の 「リミックス」&リマスターへの評です。

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このアルバムのフィルムは、霧の彼方(たぶん自宅でしょう)から歩いてくるジョンとヨーコのシーンから始まります。
元のアルバムのサウンドも、フィル・スペクターによって霧の彼方から聞こえてくる ような霞がかった神秘的なサウンドでした。

それを無理矢理にもリミックスして、声を白日の下に晒してしまった。

あくまで推測ですが、ジョンもイマジンの歌詞はダイレクトに届けるにはあまりにも ストレイトだと思っていたのでは無いでしょうか?

せめてオリジナルミックス&リマスターとの並売をすべきと思います。
内容的には、歴史的名盤な訳ですから。

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10年間。怒りを抱えつつも、まぁこれも時代の流れか。
リミックスね。俺の小さい声が世界に届く訳もあるまいし。
リミックスが合ってるアルバムも、あるじゃん。

無理矢理自分を納得させていた10年の日々でしたわ。


それが、今更、「オリジナル・ミックス」ですか。
全部、アルバム買い直しですか。

・LP、数枚
・80年代版
・2000年リミックス版
・2010年オリジナル・リマスター版

何セット買わせるんですか?
いい鴨ですか。(そうなんです。)
おいらは失業中でお金が無いんです。(それはおまえの都合。)


せめてさ、過去の盤、全部あげるから、今回のやつはタダで全部くれよ。
俺の怒りの10年、返せ。
 

2010年7月7日水曜日

七夕。

七夕ですね。

なんだかいろいろな事が変わります。
元々、「変化」を嫌う性格だったのですが、そんなことを
長年続けていたら、なにも「変わらない時間」を過ごしてしまいました。
たまになにか変わるということは、いいことのような気がします。

星に願いを、人々に愛を、おいらに金を。

ちょっと感傷的です。一ヶ月の学校生活が今日で終わりです。
短いモラトリアムです。
8人のクラスですが、皆さん今後大変そうです。
人のことは言えません。

モラトリアム。
実は「流れに乗ってなにも考えない期間」の事かも知れません。
止まるのは、墓石の下に眠るときだけです。

今晩は星の下で眠りたいのですが、お天気が許してくれそうにありません。
 

2010年6月24日木曜日

ぴんぼうる。

夜、暗い店で独り店番をしている。
暇なので、村上春樹の「1973年のピンボール」を読む。15年くらい前から家の本棚にある作品で、当然読んだはずだがあまり覚えていない。またこの人の作品はかつての作品の内容をその一部として取り込んで新しい作品にすることがあるので、もしかしたらこの設定は別の作品で知っているのかも、などと考えるとこの作品の先がどうなるかなんてまったく予想も出来やしない。
村上作品はかつて夏に宿貸しをしてあげてた女が無教養のおいらを憐れんで何冊も置いていったので、そこそこ家にあるのだ。

ただ本作、半分近くまで読んでもまだ「面白く」ならない。バラバラな人、時間のエピソードを細かく羅列している。現時点ではまどろっこしい印象しか無く。最後にはこれらが有機的に結合するのだろう、、と思うのだが、果たして。

作中の主人公は双子の女と暮らしているのだが、しかし。
双子で無いとしても、女の子と暮らしていること自体がおいらから見たら奇跡のような気がする。どうやったらそこまで「気を許す/気を許される」関係というのが成立するのだろう。
と彼女いない歴とっくに10年越えの色男、ややさんは申しております。
多分自分で気付かないだけで、トンデモナイ欠陥を持っているのだろうよ。


ここのところ眠りが浅い。でも昔から眠りが浅い、と言い続けているような気もする。既に夏バテの様相がみてとれる。
今日は学校で7つ歳下の男に歳を聞かれ、答えたところ彼よりもおいらが歳下だと思っていたらしい。まぁこの手の「嫌がらせ」は得意だが。
昔若い頃、おいらは何日も同じTシャツを着て、するとTシャツは「蜜の臭い」がしたものだった。体臭が蜜の匂いなんだよ。
でもここのところの暑さのせいで、とても着ていたTシャツの臭いなんて嗅ぎたくも無い状況だな。
最近なんだか身体から「オヤジ臭」が醸し出されて来たような気がする。歳なんだろうな。身体は変わっていくのだろうよ。

セックスしたいな。きっとそれは孤独で無いことの確認なのだろう。
そう考えると面倒臭い。そう言うこと言っているから、いつまでも独りだ。

あまりにも暇で、店で転がっていたタバコを一服。何年振りかね。
予想外のメンソールだった。なんの重さも感じなかった。
意味が無いことのように思えた。

2010年6月5日土曜日

白と黒。

今晩は、色男です。

勤め人だった頃通っていたバーの厨房の壁に何故か古ぼけたパティ・スミスのCDジャケットが貼ってあり、とはいえそこは会社組織の店なので、既に入れ替わったかつてのスタッフが貼ったのであろうがその所以など今となっては誰も分かりはしない、という状況である。
http://www.mapplethorpe.org/

パティのその有名なデビュー盤ジャケットは、ゲイのモノクロ・フォトグラファがロバート・メイプルソープが撮影したものであるのですが、モノクロ。
2つの色、ブラック&ホワイトのグラデイションで撮られた写真、要素が少なくなれば表現の幅は狭くなり没個性化するのではないか、と頭では単純に考えてみても、その作品の空気感というのは。

人間は空気を持っているので、それが無尽蔵にとっ散らかった人の海に埋没してしまえば空からそれを見つけ出すのは困難だ。神さまは空からわたし達を見守ってくれているのだから。←ホントかい?

彼の写真の乾いたトーンは、日本の湿った空気ではきっと作られなかった色であろうと思った。
湿った空気に生まれ育ったボクは熱せられた土から立ち上る水蒸気が乱す光線の具合を畳の草の匂いに頬を押しつけて、夕方の陽は西から差す。

自分の中から他人の色を除いて、屑酒からスピリッツを蒸留するが如く、純度の高いアルコールは鼻の粘膜を刺激する。

「お前、口の中がひりひりする酒ってのは」
「胃の中も荒らすんじゃないのかい?」

以前母とリカールについて話した時の言葉。それもそうだな。

肉体はしなやかで、艶やかで、歯を立てると皮下の薄い脂肪が気持ち良く。
しかし日本の湿った空気で汗ばんだ身体よりも、乾いたさらさらした肌の方が官能的かも。いや、日本の湯気昇る肌を舐める方が官能的だ。主観の相違だね。

ああ、そろそろお休みなさい。色男がお届け致しました。
 

2010年6月4日金曜日

このところの日常。

眠れない。眠れない、というのは大げさだが、深く眠る前に目が覚め、そして再度眠りに憑くことが困難だ、という感じ。
怠く、手足をベッドに投げ出して身体が重力に任せて垂直に沈む中、意識が薄い眠りの膜を上下して浮遊する。

足し算しか受入れられない性格だ、昔からね。

オトナというものになって、加減乗除総てに対応出来る人間になったのではないか、と自分に期待してみたものの、やはり引き算は苦手だ。
ぼうっと自分のことばかり考えられる日々で、そう結論付けた。この歳でそうならば、一生そのままだろうな。自分の限界が見えるということは、よいことだ。

夜の山手通りを横切る、少しだけ酒を入れて自転車で帰宅。
いつの間にか歩道はブロック貼りに舗装され、なんだお洒落じゃない。まだ工事中だけど。
工事中の歩道を横切って、正面にサンシャイン60が見える。夜風が気持ちいい。

何となく、今日の夜風を楽しむことが出来た、ということがとても特別のことのように思え、今日の贅沢を思うのでありました。
 

2010年5月29日土曜日

結婚したい。

へ? タイトル? そんなこと思う訳無いじゃん。


ただだね。昔、多分20年も前の日本では、男も女も成人したら「結婚」しないと一人前として扱ってもらえない、という時代ではあったんだな。
近年は価値観の多様化とライフスタイルの多様化が進んで、いい歳して独身でもそんなに風当たりが強いことは無くなって来ているのでしょうが。

とはいえ、まだ成人してある程度時を経た男女は圧倒的に結婚を経験する人間の方が多い訳だ。多数決では、多数なんだよ。寄らば大樹の陰なのだ。


なんだかさ。いろんな要素において多数派になりたいな、とふと思ったのだよ。
疲れてんだな。

アラフォウの日本男児の各要素多数派ってのはどんなタイプなのだろう。

結婚していて、二児の父。仕事と生活にちょっと疲れていて、でも日曜日は子供を連れて公園で遊ぶ。家族でドライヴ。最近ようやく禁煙に成功しました。
髪は裾を刈り上げて、身体にはほんのりと脂肪が乗り、お腹まわりを気にしている。そろそろジーンズを履くのは辛いかな。

内面は、どうなんだろう? 会社のこととか考えてんのかな。進行中のプロジェクトとかさ。子供の進学? 小遣いが少ないこと?
何考えて生きてんだ? いったい。


どうするとスタンダードになるのだろうよ。
というのは、自分がスタンダードで無いことが前提の発言だな。生意気な。

どうでもいいけどさ。「こう暮らしていれば正解だよ」というもんが欲しいな、とふと思ったりしたのだ。


しかしな。みなさん結婚って、「人」と結婚してんのかね。「結婚制度」と結婚してんのかね。もしくは「家」と結婚?

ちょっと「結婚したいと思える人」がいるって状態に憧れたりもするな。
もう何年もそんな人に巡り会っていないが。
 

2010年5月16日日曜日

黒猫。

なぜか土日は天気が良く、曜日に関係無く暮らすおいらに損な気分を味あわせる。
暖かい陽射し、池袋の裏道を歩くと黒猫がその乱れた毛並みのまま眼前を横切り、昼間のだらしなく開いたソープランドの扉に入っていった。

客だよ。んな訳無いか。

ソープランドには行ったことが無いのだが、常に風呂を焚いている個室というのは湿気が多く、その作りは常に陽の射さないものでは無いだろうか。
高級「露天」ソープランドなんてものがあったら開放的でいいかも知れないな。空には満天の星。

おいらは行かないが。

経済活動というのは、モノ/サービスにカスタマーが見合うと思う対価を支払うことで成り立つ訳で。
例えばオタクさんが限定発売のアニメフィギアに10万円支払ったとして、そのちっぽけな合成樹脂の欠片になんで10万円支払うんだろう?と「物質」という観点からみれば摩訶不思議なものではあるが、それに価値を見出すことが出来るのならば10万円支払う人もいるのだろうな。
高級ソープランドで10万円、と言われても、対価に比して感情の交差の少ないセックスにその金額を支払う、ということはおいらの価値観では見合わないと思う訳だ。

なんでソープランドの話になってるんだ? ああ、黒猫が昼間の店の扉をくぐって行ったのがなんだかほのぼのとしていて面白いと思った、そこからだ。

他人が「なんであんな人と?」と思うような人であっても、その人の価値観に見合っている人となら交際したり結婚したりするのでしょうよ。
何億人いるのか知りませんが、人類の多く(ほとんどがオトコとオンナの関係において)が番いとなっている現状からすると、その価値観ってのは上手くマッチングする組合せってモノが地上に存在するんでしょうな。

組合せを見つけるのは、努力かね? 運かね?

ソープの次は恋愛論ですか。まぁ人間は色恋とセックスの話が大好きですからな。村上春樹氏の「ノルウェーの森」が流行ったのは、その理由のひとつには、あっけらかんと性描写が織り込まれているのが理由では無いか、と思うのですがどうなんでしょうね。おいら本を読まないのでヒットと性描写の相関関係について考察出来ませんが。

ノルウェーの森。ビートルズの曲名ですが、どうもやっぱり「ノルウェーの森」というのが「誤訳」である可能性が高いのでは、と思うようになって来た。
正しくは「ノルウェイ製の家具」ではないかと。英語に疎いので分からないんだけどさ。
まぁでも、男が女の家に上がり込んで「いいじゃない、ノルウェイの森」と呟く、その画自体は誤訳であってもクールだな。

レノンが、「このまま真っ当な英国市民として生涯を終える」ことに恐怖を感じて、家庭を顧みず数々の女性と関係を持ったことを描写した歌なのだけれど、
「このまま真っ当な市民として生涯を終える」ことに恐怖を感じたのは妙に共感するのだな。

じゃあどうしたいの?

うーん、別にしたいことなんて無いんだよねー。何かしたいってのは、訓練で身に付くのかな。小さい頃から別になにかしたいことって無いんだよね。

何もしたくない割には、こうやって無駄に言葉を並べて衆人の目に晒してるな。
その衝動が自分のどこから湧くのか。それを知りたい。
 

2010年5月10日月曜日

睡眠/犬/肉/臭い。

朝、目覚めた後、また眠りに落ちた。なんだか身体が重力に抗えなくなって、ベッドに吸い込まれそうだった。

睡眠というのは、あたまとからだを休めるのであろうが、たまにそのバランスが悪い時があるな。
意識はある程度あるのにも関わらず、身体の力がまったく抜けてしまい、筋肉が弛緩していることが感じられる。頭で、動こうと思うと身体がとても重たいことに気付く。頭が、客体視した自分の身体を持ち上げようとするのだが、その時普段意識することなく動いていた身体が、「重さを持った物体」であることに気付くのである。
そして、面倒臭くなって、もういいや、目を閉じて、眠る。

なんとなく、死ぬ時もそんな感じかも知れないな。面倒臭くなって、もういいや、目を閉じて、死ぬ。

金曜土曜と、とある暗がりの密室でひとり4時間程過ごしたのであるが、二日目、土曜日はなんとなくうちに転がっていた漫画を一冊持っていった。
別に漫画がなくても、暗闇で4時間程度過ごすことは出来るのだがね。

I WANNA BE YOUR DOG という短編集が家にあった。

多分気が滅入る内容だと思われるので、大して目を通していないのだ。覚えて無いから新鮮な気持ちで読めるだろう。
タイトルは、ストゥージーズの曲だよな。好きかい?イギー・ポップ。おいらにはよく分からないよ。
表題作以外の短編を暗がりで読んでいた。やっぱり、気が滅入る話が多く、暴力に依ってエクスタシーを得る夫とそれを理解する元モデルの妻が、第三者(犠牲者)を殺害してその興奮からセックスをする話が載っていた。
二人は子宝に恵まれ、幸せに老後を過ごしたそうだ。

「俺は、喰われて死にたい。」ってのは岩井俊二の映画の台詞だったかな。

スーパーの食肉売り場のパック入りの肉だってさ。別に同じように加工すれば人間の肉だって見た目は変わらないでしょうに。

要するに、多くの生命は「喰って」「喰われて」暮らしているということだ。
肉食の猛獣だって、野垂れ死んだ後はシデムシやハエに喰われる訳だ。
その点、日本では死後すぐ火葬されるので、ああ、そうか。

日本人は、食い逃げだな。

鳥葬ってのはその点、「喰って」「喰われる」ので理にかなってるかも。
なにが「理」なのか分からんが。


何だか分からんが、今日スーパーで買った5割引の手羽先が、やっぱり結構臭ってたのが気になったのだ。全部喰ったが。
なんか、肉棄てるって、嫌な気分でしょ。
 

2010年5月9日日曜日

館と猫。

只今50連休中です、ヤヤ@色男.com 。
誰か仕事くれ。



【以降若干エグイかも知れないのでよい子はもう寝てください。】

わたしが色男にも関わらず想像を絶する長期に渡り女性とは縁が無いのは周知のことですが、それによってあらぬ噂をたてられることも多く。

つまりは○モさんかと。

こんだけ女性と縁が無いので今さら何言われてもいいんだけどさ。
事実だけ言っておくと、おいらは男のアブラの臭いとザラついた肌が大嫌いだ。変にガサツだったり、タバコの臭いが染み付いてたりするともうアウトだね。セク○スの相手としてはね。

という訳でホ○さんの可能性は皆無だとだけ言っておこう。保母さんね。

さてあまりにも暇で「猫ひろし」について調べていたら、「猫ひろし」って芸名は、知ってた?
「舘ひろし」、つまりは「タチのひろし」に対しての「ネコのひろし」で付けられてんだってさ。タチとネコ。

これは知らんかったよ。テレビで流していいのか? こんな名前。
玉袋筋太郎はNHK出演時は名前変えさせられてるらしいけど、猫ひろしはそのままNHK出てんのかね? どうなんだ?
(もしこれで話・言葉の意味が分からない方は個別にメッセージくださいまし。)


さて、わたし今晩小遣い握りしめて焼き鳥屋に行って、週刊漫画誌読みながらサワーを飲んでたんだが。無職のくせにな。烏賊の沖漬けツマミに。

漫画で、腐女子が(変換利かねえんだな)クラスメイトの男の子をみんなタチとネコに分類するって妄想を繰り広げる、って話があったんだよ。

タチとネコか。

身近な男性諸氏をこの二分類で分けてみてください。暇つぶしに。
きっと気分、悪くなりますよ。
おいらは世間的にどっちだと思われんのかね?


どうでもいいんですが、似たような遊びでわたし男性諸氏を「長髪」「ベルボトム」にしてみる、という妄想をたまにしてみます。わたしのトレイドマークの2点ですな。大概の男は似合わんよ。
しかし。悔しいかな、元からカッコいい男は別に「長髪」「ベルボトム」にしてもきっとカッコいいんだよね。
わたしが長年かけて「長髪」「ベルボトム」をキャラ化してきたにも関わらず。

キーッ!
 

2010年4月27日火曜日

沢屁の離婚報道におもふ。

基本的においら、性善説なのね。
1対1の関係では、悪い人というのはいないと思っている。というか、「悪い人」と思ったら近づかないんだよ。悪い人、あと負のエネルギーの大きい人ね。
負のオーラってさ、うつるんだよね。吸収しちゃうんだよ放っておくと。

人間てのは一言では言い表せない存在であるので、つまりは多面性を保っているので、「いいとこ」だけ見れば万人いい人で、「悪いとこ」だけ見れば万人悪人だ。

でも人それぞれ価値観というのが異なるので、コミュニケイションの浅い段階では手っ取り早く自分の琴線に触れるところで人を判断する訳だ。それがポジかネガかってので人の第一印象というのは決まる。
コミュニケイションが深くなると、いいとこも見えて来る訳で、そうすると「まぁいっか。」と人に対して妥協する余地も出て来るかも、なのだな。

人を好きになるかどうかってのは、結局いいとこだけ見りゃみんないい人な訳で、「あいつの悪いとこをどんだけ許せるか」ってことになるんじゃないですか?

結婚すると、べったりと一緒にいる訳で、相手の屁するとこから「他所では見せない意地悪なとこ」なんかも見えて来る訳ですよ。そうするとさ、もう「契約書」交わしてる訳だから、価値観の擦り合わせが必要なんだな。

それを言葉変えると「我慢」と言うのかも知れませんが。

我慢を見越さないで、契約書交わしちゃマズいと思うんだよな。大人なんだからさ。それが結婚てもんじゃない?


などとエリカちゃんの離婚報道を見聞きして思った結婚未経験のおっさんなのでした。
偉そうなこというな? はい自重します。
 

2010年4月21日水曜日

ホワイトアルバムがシングルアルバムだったなら。

はいはい。オタクネタだよ。


プロデューサー、ジョージ・マーティンは1968年のビートルズの2枚組アルバム「 THE BEATLES 」を、曲を絞って1枚組でリリースすべきだった旨発言している。

もしシングルアルバムだったらどうだったろう。
おいらの個人的な好き嫌いでは無く、当時の関係者の発言やグループ内力関係、曲調のバランスなどから勝手に想像。

とは言えなぁ。「絶対落ちる曲」「絶対入る曲」は分かるんだけど、それ以外で当落は分からんなぁ、やっぱり。

2010年4月、ややさん選曲。 お遊びだからね。

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1. Back In The U.S.S.R.
2. Ob-La-Di,Ob-La-Da
3. I'm So Tired
4. Blackbird
5. Don't Pass Me By
6. While My Guitar Gently Weeps
7. Happiness Is A Warm Gun

1. Revolution 1
2. Honey Pie
3. Yer Blues
4. Mother Nature's Son
5. Sexy Sadie
6. Helter Skelter
7. Long,Long,Long

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で、やっぱりこれはダブルアルバムでのリリースが正解だと思った訳だ。


以下、オリジナルのダブルアルバム。ややさんの採用、不採用マーク付。
おいらの好き嫌いでは決して無い。

○: Back In The U.S.S.R.
×: Dear Prudence
×: Glass Onion
○: Ob-La-Di,Ob-La-Da
×: Wild Honey Pie
×: The Continuing Story Of Bungalow Bill
○: While My Guitar Gently Weeps
○: Happiness Is A Warm Gun

×: Martha My Dear
○: I'm So Tired
○: Blackbird
×: Piggies
×: Rocky Raccoon
○: Don't Pass Me By
×: Why Don't We Do It In The Road?
×: I Will
×: Julia

×: Birthday
○: Yer Blues
○: Mother Nature's Son
×: Everybody's Got Something To Hide Except Me And My Monkey
○: Sexy Sadie
○: Helter Skelter
○: Long,Long,Long

○: Revolution 1
○: Honey Pie
×: Savoy Truffle
×: Cry Baby Cry
×: Revolution 9
×: Good Night

2010年4月16日金曜日

だらだらとセックス。

昼のテレビで滝川クリステルが出ていた。
いや、このひとは堪らんな。このひとに好かれる為ならなんでもやるな。
嘘。

人間は「交差する可能性のある人」とその可能性の無い人ってのがいるもんだ。
そう考えるとだな。自分の「ブサイク/ダメ人間」っぷりはこの際置いといて。
おいら、ストライクゾーンが激狭だな。こっち側から交差する可能性を狭めている訳だ。身の程知らずにも。

ちょっと前に書いたのだが、つい最近までとある女性にごく短期間もの凄く執着していたのだ。
容姿、趣味、将来のヴィジョン総てにおいて、全く交差する可能性の無い女性だったが、久し振り(多分十年振りくらいか)に「強い感情の揺れ」を体験してしまった。
後から冷静に分析するに、どういう感情の遷移があったか分かるのだけれどもね。

酸いも甘いも乗り越えた素敵でダンディでキモイ容姿の中年となった今ではその感情が一時的な流行病のようなものだと自分に言い聞かせることが出来たのだが、20年前だったら絶対手出してるよ。
そして手を出して、仮にその時上手くいったとしても、すぐそのズレを認識して不幸な結末を迎えたことでしょう。

そういった意味では、常に冷静に相性のことを考えるというのは自己防衛としていいことかも知れない。



なんてことを今日一歩も家を出ず中村うさぎ女史のエッセイを読みながら思ったことだよ。
彼女40過ぎの頃、15くらい歳下のホストに「枕営業」され、何故か「灯りを消して」「バックで射精された」理由を後になって分かって愕然としたそうだ。
いや、セックスをしながら他のひとの顔を浮かべるなんて、よくあるんじゃないの?

1年くらい前にクラブ行ったらかなり歳上の酔っぱらったねえさんにディープキスを求められて応えたのですが、明かに「してあげた」感があったな。
サービス精神が旺盛だ。

セックスってのは「人格に対する好意」と「肉体に対する好意」、そして「快楽の度合い」ってのが必ずしも相関しないのが不思議だな。
最も幸せなのは、好きな人と濃ゆいセックスをして、エラい快楽を得られればいいのですが、総てを満たすことなんて、どうなんですか?


猫と暮らしてるとね。奴とおいらは理屈無く関係が成立してるんだけどね。
あんまり頭で考えたって、正解は分からんもんなんだろうね。
 

2010年4月14日水曜日

大人は分かってくれない。


すっかり専業主夫業が板に付いてきました。基本的には主婦性格なんだろうな。ひとりで楽しく暮らしています。
あんまり多くの人と関わるのは苦手なんだよ。



【心理テスト】 Mapion から拾いました。http://www.mapion.co.jp/

美術の宿題で果物の絵を描かされています。あなたは何を描く?

 A. ミカンやリンゴ、バナナなど、カゴに盛ったたくさんの果物
 B. イチゴを、グラスにかわいく盛って描く
 C. ミカンの皮をむいて、半分に割ったものを上手に飾って描く
 D. リンゴ一つを、光の当たり方を工夫して描く





-------------------------------------------------------------------------------------------

A. どんな人の話も信じちゃうお人よし。
  影響されやすい度100%!

あなたは良くも悪くも、周囲の話をスポンジのように吸い込んでしまう性格。 とにかく飲み込みが早いので、勉強や趣味などは驚くほど短期間でグングン成長できます。 けれど、人の噂に関しても同じなのはちょっぴり厄介。 周囲が「絶対嘘でしょ」と思うようなネタでも、あなたは信じ、それに左右されてしまいます。 それが悪意のある内容ならトラブルに直結してしまうので危険!一度自分の中で、「ホントか嘘か」ちゃんと考えるクセをつけて。


B. 「コレ、誰にも内緒の話」の一言に弱い
  影響されやすい度70%

普段は冷静で、判断力に優れたあなたなのに、「コレ、誰にも内緒の話なんだけど...」の一言がついたら、もうダメ。 持ち前のミーハー精神が全面に出て、好奇心も手伝い、全てが真実であるかのように感じてしまいます。 それを他の人に喋ってしまう、ということはしませんが、ガッツリ影響されてしまうのは確か。 自分の噂が流されても、そんなにビクともしないのが救いですが、大切な友人を、噂を信じたためになくしてしまう危険があるのでご注意!


C. 人の噂は他人ごととして聞き流す「我関せず」タイプ。
  影響されやすい度0%

自分をしっかりと持っている人。 なので、どんな噂を聞いても「ふーん」と聞き流し、全く影響されません。 自分の目で見たことしか信じないようにしているので、他人のことをとやかく噂する事自体「無駄な時間」とバカにしているところが。 時には大切な情報まで聞き流してしまうこともあるけれど、それはそれで仕方ない、と後悔しないタイプ。 あなたのそんな凛とした性格は、絶対に後から高い評価をされるので、今のまま貫き通すべき!


D. 自分は自分、と強がり過ぎて逆に影響されているタイプ。
  影響されやすい度30%

あなたは、人の噂に振り回されてはいけない、自分で判断しなきゃ...と思い過ぎて、逆にいつのまにか噂が気になって仕方なくなってしまうタイプ。 根本的にマジメな性格なので、人の話は、一旦素直に飲み込んでしまいます。 けれど、ゆっくり考えて「違う」と判断し、ギリギリのところで目が覚める感じに。 それまでかなり時間がかかるので、もう少し思考の瞬発力をつけたほうがいいかも。 口の達者な友だちには巻き込まれる確率高し!

-------------------------------------------------------------------------------------------

いや、D. を選んだんだけどね。あまりに当たっていて笑けた。



大人は分かってくれない。

なにを書こうとしたんだっけ? いや、あんまり他人に期待するなってこと。
最近妻夫木クンが「大人ってなに?」みたいなCMやってるけどさ。
大人って、「自分で稼いで喰ってること」でいいじゃん。
あんまりハードルを上げ過ぎると、この世に大人なんて一人もいなくなっちまうぜ。

「俺たち」「僕たち」「わたしたち」って言葉が嫌いでさ。いや、他の人が使ってるのは気にならないんだけど、勝手においらまでその中に入れられるのが嫌なんだよ。

なんだか世の中は二項対立の構図が好きでさ。ソ連とアメリカとか。共和党と民主党とか。巨人と阪神とか。
んで、おいらまで勝手にそのどっちかに入れないでねってことだ。

おいらはそんな「君たち」をひとりで眺めているだけで充分だ。
 

2010年4月10日土曜日

下戸。/矢部さん。

のっけからなんだが。
失業して朝から手淫をすることが多くなった。

サラリーマンの頃など、なんかの弾みで朝からそんなことをすると半日くらい身体がふわふわした感じになって後悔したものだが。
今の状態であれば、別にするこたないし、そういう欲求を強制的に片付けることで何かの「間違い」を仕出かさずに一日過ごせるってもんだ。


働いていた頃は休日は朝から酒飲んでたな。仕事のある日もちょいと舐めてから出掛けることも稀にあった。おいら酒は強くは無いのだが、頻度的には酒飲みの部類であろう。

んで。
失業して朝から飲酒することが多くなった。

するこた無いからさ。朝から酒飲んでるよ。
家計簿見ると 3/23 にビーフィータとバカルディを購入している。4/6 にバランタインを購入している。ビーフィータは空だし、バカルディとバランタインも残りは1/3だな。
その間、マイヤーズもクエルボも飲んでるし、回数が減れども外で飲むこともあった訳だ。

昨日、流石に休肝日にしようと思い(しかも金使わぬ日と決めていたし)(外は寒いし)家に籠っていたが、午後の陽射しが傾く頃にはいつも通りちびちび酒舐め始めてしまつた。
よく失業者が昼間から酔っぱらって世の顰蹙を買うものだが、酒が無いと時空の歪みに落っこちそうな感覚に陥るのだな。実際は歪んでいるのは酔っている時の方なのだが。

しかし下戸の方々はどうやって時を過ごしているのだろう。
といつものように考える。夜は長過ぎる。



話は変わるが。「警部補 矢部謙三」やっぱり面白かったよ。
テレ朝金曜23:15のドラマ。あの TRICK のスピンオフ作品。TRICK ファンで、もし知らん人がいたならば。

仲間由紀恵って、なんだか世間では「ごくせん」の人って認知のされ方だが、いやいや彼女がブレイクしたのは TRICK だろうよ。
TRICK が終わった後、しばらく「おいらは仲間由紀恵のことが好きなんだろう」と思っていた時期があったのだが、どうも他のシーンで彼女を見てもなんとも思わん。
暫くして気付いたのだが、おいらは仲間由紀恵はどうでもよくって、彼女の演じていた山田奈緒子が好きだったのだな。

アイドル上がりで演技も大根な仲間が、「大根のまま演技する」という手法を確立したのは TRICK だ。
阿部ちゃんもかっこいいし。二枚目の阿部ちゃんがボケ役やるってのもハマってたな。どっか行っちゃった 鬼束ちひろ もこのドラマの主題歌で広まったんだろう。

まぁいいや。「警部補 矢部謙三」、期待に違わん出来です。
滅多にドラマ見ないおいらが言うのもなんですが。
 

2010年4月9日金曜日

東京風景。

東京は快晴。久々に陽の光を見る。
とは言え、気温は低かったので朝飯を喰った後また寝てしまった。


夕方早め、そんな陽が勿体無く、自転車に乗って出掛ける、あても無く。
山手通りを暫く行くと西武新宿線を跨ぐ。西武新宿線。不毛の地。
いやこう言っては失礼だが、この路線の界隈というのはあまり「街」が出来ないのだな。住宅が目一杯広がって、それまで。

田舎から上京してきた者の感覚としては、それはそれは「東京」ってのは「特別な街」で、住民はみんなレディ・ガガみたいなのばかりでなくてはならんのだ。
とはいえね。別に東京だってさ、「普通の人」が沢山住んでいて、それが大半なんだよ。おいらも相対的に見ればかなり都心に住んでいるのだが、そこから自転車で十分もこげば、その風景を切取ってみればそれはどこの地方の住宅地と言っても分からぬ風景となる。
東京が他と異なるのは「背景に山が写らない」ことと「住宅が異様に密接している」ことくらいだろう。

昔ふらっと一人でクラブに入ったらその日はボンデージ・ナイトだったらしく、ラバーマスクと淵だけのラバーのブラジャーのおねいちゃんがおっぱい丸出しで踊っていて「こりゃこりゃ東京の風景ですな。」と思ったもんだったが。でも東京のおねいちゃんがみんなおっぱい丸出しで踊ってたらそりゃおかしいわな。
大半は市井の人々だ。たまたま首都東京に住所があるだけなんだよな。


中野まで出て、そのまま中野通りを戻る。

桜が四車線の両側からアーチのように花を咲かせ誇っていた。
先日母が
「桜は良く無いね。桜は暗くなる。いけません。」
と言っていた。でもまぁ、天気のいい日であれば桜も美しいよ。

15年、真面目に働いた。良く無いのは、誰も「抜き方」を教えてくれなかったことだ、只管に働いたよ。結局、会社辞めなきゃずっと気合いの入ったままだったんだろうな、後20年居たとして、それはそれで途中でパンクしていただろうよ。
いや「教えてくれなかった」のでは無くて、そういう人間だ、ということだろうな、人のせいにするな。
常に気合いが入っていたから客には好かれただろうが、でももう自分の限界だ。結局、そういうことだ。


ちょっとした「休み」だな。
ひとりでいつものすし屋に行って、
「今日は早いのね。」「無職だからさ。」
鳥貝が生だよ、今の季節だけだね。

少し酔って家に帰ると、アルバイトの面接の案内が届いていた。
 

2010年4月7日水曜日

無色。

なんだか飽きてきたな。


年度始めのせいかハローワークもゲロ混み。元の会社とやり取りした後に家を出たので、着いたのが11時だったが。順番が回ってきたのは13時半。
んで話したのは10分弱。

脇では受付のおばちゃんとおじさんの会話。
「で、お住まいのカプセルホテルは○○区内でよろしいんですか?」
せめて借家でも住む家と働く場所くらい国が保障出来ないのかね、この国は。なにが経済大国なんだろうか。
おいらみたいなナンチャッテ失業者はいいからさ。困ってる人達は大勢いるのだろうよ。

帰りにバランタインを買って帰る。
とりあえず酒は覚えないとな。経費で落ちないか?


ひょんなことから中学時代の同級生とやりとり。20数年振りだな。
「こないだ15年のサラリーマン生活を終えたところ。」
「ふ〜ん。サラリーマンねぇ〜。想像出来ない。」

つまりはおいらは「ナニモノ」になっていたら納得されたのでしょうね。
まぁどこにいても「異物」としか機能しないんだよな。で、「異物」は「異物」以上の意味は持たないのよ。


友人達がいろいろ連絡をくれてだね。助かるよ。
「鬱っぽくなりやすいお方だから気をつけて。」とか。
「まぁ助け合って生きようよ。」とか。
数は少ないが良い友人ばかりで良かったよ。

母は「陽に当たりなさい。」とのことだ。鬱にならぬよう。
日焼止めクリーム塗って日光浴するよ。


猫にワクチンを打ってきた。
ホントに猫くらいだよな、おいらを受入れてくれるのはな。
ある意味おバカさんなのだな。

女喰いたい。
 

2010年4月5日月曜日

ハウスワイフ生活。

役所行く。国民保険と国民年金の加入だよ。
4月頭だからだろうか、ゲロ混み。待つわ待つわあなたを待つわ。

その後、ハローワークに行くが、書類の不備に途中で気付き帰る。
まぁ時間はいくらでもあるよ。明日出直そう。


スーパーで見切り品の白菜を発見。
見るからに見切り品だったが、要領よく切っていけばあんまり気にならんレベルになったぜ。今夜は水炊き。明日の朝も水炊きだな。

なんだか

 ・旦那単身赴任。
 ・子供無し。
 ・財布は厳しい。
 ・友達いない。

専業主婦みたいな生活だ。
飯を作ってばかりだ。ついでに昼間からダイキリとギムレットも作って飲む。

専業主婦がファミレスなんかで集ってしゃべくり倒す気分も分かるよ。
そうでもなきゃもたないんだろうな。
ふんがふっふ。
 

2010年3月29日月曜日

依存心。


昨日は花見。うん、寒かったよ。花も、ぼちぼちだな。でも20人くらい集って、楽しかったよ。
昨晩から肋骨の辺りが痛むのだが、冷えたのか。

ラグーとファルファッレを持って行ったのだが、残ったので今日温めて昼飯にしよう。



「ついったー」始めました。探してみてね。しかしあれ面白いのか?
まぁ独り言の延長みたいなもんだよな。



CREAM の Disraeli Gears を集中的に聴いている。1967年。
CREAM のスタジオ盤って、なんだかおマヌケな感じがして面白いね。当人達も分かってて演ってるんだろうけれど。ライヴでの轟音ハードロックと違って隙間の多い音録りとブルースとエリックの柔らかいコーラスワークとか。
一歩引いた洒落具合が良いよ。



ここのところ最近、とある女性にもの凄く入れ込んでいてだね。常にその人のことを考えていたのだよ。そしてその人のことを考えると非常に心が苦しくなる。
ところがだ。その人は全くもっておいらのタイプでは無い。ルックスも性格も人生のヴィジョンもね。
「一緒になるべきでは無い」人物だ。だから表向き、一切そんな感情を出さずにいる。

「結局なんなのだろう」と一生懸命解明してみたところ、失業することで頼るものが無くなり、それを誤摩化す為に「執着する対象」が必要で、執着することで精神の安定を図ろうと無意識に思っていたのだろうと思う。

川で溺れて流れているので、掴まっても仕方無い流木にしがみついているような感覚だな。
おいらってもの凄く依存心が強いんだよ。そんな駄目な自分が嫌い。

そうやって自分の感情を整理して考えてみる訳だ。


さて早く仕事見付けないとな。あと正しい愛情を注ぐ対象とかね。
 

2010年3月21日日曜日

アブサン全力疾走自堕落。

バーの女給さんが来週で辞めるとのことで、顔出しに行った。神楽坂のビアバー。

3年か4年いたらしいんだが。彼女が最初に店の様子見に来てた日を覚えているので、うーん、それから流石に「4年」は経ってないと思うのだが。でも3年は経ったのか。
沢尻エリカがメディアの前に立ったのは2年半振りだったんだってね。クローズド・ノートは観に行ったから、それから2年半か。うーん。
年のとり方が分からんよ。


「失業者」だから、電車代はもったいない。チャリンコで早稲田通りを突っ走る。今の家に越す前は、毎朝チャリンコで10分弱の全力疾走だった訳で。学生の頃は金が無いから暇つぶしに盆の銀座を夜中チャリで走るなんてことやってたな。パトカーにつけられた。
久々の疾走に太腿が痛くなりながらも、中々いい気分だった。どっちかと言えば、引っ越した後の6年間の方が間違ってるんだ。チャリンコで全力疾走。
これが忘れていた本当のあたしのライフスタイルだ。


ビアバー。2杯分入る大きなグラスで白ビールを飲みつつラザニアを喰う。
グラスが空く。

女給さんのイメージで、アブサンを一杯。
「じゃ、わたしのスタイルで。」
アブサンと氷の入ったグラスと水の入ったグラスを出される。
ちびちび氷にアブサンを注いで、水を入れて白濁させて舐める。

「自堕落な味がするな。」

そういうと鼻で笑われた。

ビアバーなのに、次にマティーニを頼む。この店でマティーニを頼むのはあたしだけだ。店主もあたしも「お遊び」でやってんだが。偶然「料理用に」ノイリープラットを仕入れたのを見てしまったのだ。ノイリープラットなんて、マティーニにしなきゃ減らないんだよ。
「お遊び」のマティーニは「お遊び」の味がして、それはそれでいいんだ。
遊んでくれる人がいるだけ幸せだ。


自転車で全力疾走。なんだかいい言葉だな。
全力疾走をしなければ墜落するだけだ。忘れていただけで、まだ走れるよ。
 

アブサン全力疾走自堕落。

バーの女給さんが来週で辞めるとのことで、顔出しに行った。神楽坂のビアバー。

3年か4年いたらしいんだが。彼女が最初に店の様子見に来てた日を覚えているので、うーん、それから流石に「4年」は経ってないと思うのだが。でも3年は経ったのか。
沢尻エリカがメディアの前に立ったのは2年半振りだったんだってね。クローズド・ノートは観に行ったから、それから2年半か。うーん。
年のとり方が分からんよ。


「失業者」だから、電車代はもったいない。チャリンコで早稲田通りを突っ走る。今の家に越す前は、毎朝チャリンコで10分弱の全力疾走だった訳で。学生の頃は金が無いから暇つぶしに盆の銀座を夜中チャリで走るなんてことやってたな。パトカーにつけられた。
久々の疾走に太腿が痛くなりながらも、中々いい気分だった。どっちかと言えば、引っ越した後の6年間の方が間違ってるんだ。チャリンコで全力疾走。
これが忘れていた本当のおいらのライフスタイルだ。


ビアバー。2杯分入る大きなグラスで白ビールを飲みつつラザニアを喰う。
グラスが空く。

女給さんのイメージで、アブサンを一杯。
「じゃ、わたしのスタイルで。」
アブサンと氷の入ったグラスと水の入ったグラスを出される。
ちびちび氷にアブサンを注いで、水を入れて白濁させて舐める。

「自堕落な味がするな。」

そういうと鼻で笑われた。

ビアバーなのに、次にマティーニを頼む。この店でマティーニを頼むのはあたしだけだ。店主もあたしも「お遊び」でやってんだが。偶然「料理用に」ノイリープラットを仕入れたのを見てしまったのだ。ノイリープラットなんて、マティーニにしなきゃ減らないんだよ。
「お遊び」のマティーニは「お遊び」の味がして、それはそれでいいんだ。
遊んでくれる人がいるだけ幸せだ。


自転車で全力疾走。なんだかいい言葉だな。
全力疾走をしなければ墜落するだけだ。忘れていただけで、まだ走れるよ。
 

2010年3月18日木曜日

痛み。

会社を辞めたら苦労すると思っていた。予めね。

ところが、実は先週の土曜日、ふとした切っ掛けで非常に条件のいい仕事を見つけたのだった。全くもって、いや総てでは無いが、かなりあたしの探している仕事と一致する部分があった。これは非常に幸先がいい。
あたしって、やっぱり強運の持ち主だな。そう思った。

月曜日の最終出社深夜まで会社で仕事をし、心機一転火曜、水曜とその仕事の下調べを続ける。朝起きて午前中にその仕事を調べる。よし、いい話だ。
3月中は会社に在籍なので、3月から新しい仕事を始めるとしたらどうするんだろう?面倒だな。
水曜日の下調べを終え、意を決して電話を入れる。話を聞く。ん?なんだか条件が違う。聞いてた話と違うじゃない。

結局仕事は成立しなかった。


最初から悲観から入ればいいのだが、一旦楽観的な頭になってしまうとちょっとした躓きが痛い。激しく動揺する。慌ててネット上で仕事を探したが、立て続けに3つ成立しなかった。ようやく気持ちが初心に戻ってきた。

これが現状だ。

ちょっと最初の「一旦楽観モード」が余分だったな。
夕方部下から仕事の相談を受ける。まぁあたしが残してきた仕事だから、相談、というよりは自分の後処理なのだが。他人に尻拭かせてんのか。まあいいや。電話で話をする。明確に指示が出来る。
以前の仕事であれば、トラブルが起こっても総て自分の掌の上で起こっている事だったが、今、「掌」も何も無い赤ん坊みたいな気分だよ。
just like a Baby


気分を変えよう。そう思った。耳に穴をあけた。医者で針が貫通する。
鈍い痛みが続く。


痛みというのに、種類があるんだ。それを認識した。痛みというのは、切り裂かれるような気分だとばかり思っていた。いい歳して、今更知ることもある。

鈍い痛みが続き、掌を握りしめる。
 

2010年3月16日火曜日

the show is over 。 

3ヶ月に渡る「退職劇」に幕が降りる。

12月25日の辞表提出から始まり、最終幕は夜の23時半まで客や協力機関と話を詰めるという嫌味な幕引きだった。

「明日も来るんですよね?」

と何人にも言われたが、終わりはきっちり付けないと。もうあたしの目は別のものを見ているよ。

the show must go on 。 それでも僕らは生き続ける訳だから。
 

2010年3月13日土曜日

フィフティーン・イヤーズ。

朝、猫を病院に連れて行き、帰りにスーパーに寄ったら潰れていた。

決して良いとは言えなかったが、昔ながらの八百屋・魚屋・総菜屋の集合体みたいな人の手を経てる感じと、値段の安さが気にいっていたのだが。
別の大きなスーパーに寄ったら勝手が違って使い難かった。まだあるうちに値段を比べとけば良かったのだが、やや高い感じがするし、キウイがバラ売りしかなかった。


昼前に携帯電話をとうとう人生初の試みとして購入し、酒屋でマルサラ酒とテキーラとラフロイグを購入した。

携帯電話とラフロイグは、我が家に初のお目見えだ。

機械に弱いので、携帯電話をいじるのに疲れる。ラフロイグを舐めながらジミヘンを聴き、自分の経てきた年月について考える。

 ・4年   大学
 ・6年   小学校
 ・6年   楽団
 ・6年   今のマンション
 ・8年?  3番目に住んだ家(実家)を出て行くまで
 ・11年?  趣味の学校
 ・15年   勤めた会社
 ・23年   ペットのすっぽん(実家においてきた)

まぁすっぽんは置いといて、こうしてみると会社勤めは長かったな。
今度の月曜日でその最後の出社なのだが、なんだか15年という歳月は非現実的で把握し切れない。

いろんなころがあったようで、なにも無かったような気もする。
わたしがいなくても会社にとっての現実は転がり続ける。
また誰かの15年の一部が転がる。

わたしも自分のレールの上を転がるしか無いのだがな。
縁があったら、また新しい誰かとレールが交わるのだろう。
その時はよろしくね。
 

2010年3月12日金曜日

ぎんなん。

八幡宮の銀杏が倒れたらしい。鎌倉三代目将軍、実朝が公暁に切られた現場である。

「父の仇かく討ったり。」

公暁は鎌倉二代目将軍頼家の子であり、実朝は叔父にあたる。
頼家は母の北条家よりも比企家に親しく、病床に伏している間に北条家により将軍職を追われ、隠居生活をしているところ入浴中に暗殺されたとのこと。

歴史というのは時の為政者により都合良く書かれるものであり、父頼朝の急死後若くして将軍になった頼家は、御家人の秩序も知らぬ戯け者として記されている。

しかし実際のところはどうだったんだろうな。
老獪な御家人衆に体よくあしらわれたのでは。というのはどうですかね?

北条に親しかった実朝も暗殺された事により、天皇家の血をひく源の将軍は絶える。北条の執権政治がここに始まる訳で。

頼家の死も実朝の死も、仮に北条の策略としたならば、如何なものか。
「腹を痛めた実子を二人、家の為に殺させた北条政子」ということになるが。
いや仮の話ですよ。

でも、そんなことが全く無い、と言い切れる程、世の中は澄んでいる訳では無いのかな。
などと銀杏の件から考えてみた。


さて、わたくし今後どう生きたらいいでしょうか?

2010年3月11日木曜日

ベルボトム・ブルーズ 。

家では滅多に蛍光灯を点けずに60wと30wのレフランプで暮らしているのだが、珍しく蛍光灯を点けたまま眠り込んでしまって、昼夜の感覚が分からなくなり、ひたすら眠りながら妙に世界から隔絶されたような気分になってしまって、悲しくなった。


変な時刻に目覚めたがダイキリでも作ろうと思って、シェイカーに製氷機の氷と凍てついたバカルディを注ぎ振ったのだが、シェイカーの中で凍り付いてしまって氷が動かなかった。最近買った冷蔵庫効果。
こりゃまた研究が必要だな。妙に苦い味に仕上がった。


大学生になった頃にカノジョを作ったのだが、後から考えると何となく都会の一人暮らしが寂しかったというのがその動機だったかも知れん。
会社辞めたら、またカノジョが出来そうな気がするよ。女の子にやたらとストレイトに迫れそうだ。
どこかに帰属いていたいんだろう。どんな小さなつながりであってもね。


パティ・ボイドの自伝は、ようやくジョージ・ハリスンと離婚しエリック・クラプトンと暮らし始める段にきた。

エリックはどこぞの貴族の娘とヘロイン中毒の暮らしをしつつ、パティの妹とも関係を持ち、パティへの叶わぬ恋の為により深くヘロインの森へと入り込んでいったとのこと。

いや、なんだこれ。

パティの妹ポーラは、ドミノスのレコーディングに立ち会っていて、出来上がった「いとしのレイラ」を聴かされたという。誰もがその内容がなにを意味するか分かるような露骨な歌詞に、彼女は自分が「姉の代用品でしかない」ことに傷つき、エリックの元を離れたという。

エリックといえば、日々自分の親友ジョージの家(にいるパティ)に手紙を書き、夫と別れて自分の元に来ることを懇願し続けたそうだ。

あたま、おかしいぞ。
おいら普通でヨカタよ。

ちなみにベルボトム・ブルーズは、エリックがパティに贈ったアメリカ土産のベルボトムのことらしい。ようやく意味が分かった。横恋慕の象徴だったのねん。


夕方母に電話をしお茶をねだったが、大阪での姪の結婚式帰りで疲れていたようで、機嫌が悪かった。間が悪い。