2011年3月19日土曜日

ホテル。

三月五日。




祖母の葬儀より帰宅。父方の祖母。97歳だそうだ。老衰。亡くなった瞬間が分からなかった程、眠るような最期だったらしい。幸せな幕引きだ。

孫七人、曾孫五人。
一番上の孫、祖母を映画に撮った人は隠岐島で撮影があり戻れず。
FAXで弔辞を送ってくる。映画監督だ。書く文が違う。

親戚、というのは人間観察という意味ではとても面白いサンプルだ。とても、面白い。血、とはなにか。家とはなにか。
しかしそれはまた後日。


妹が、1歳の甥を連れて帰郷。おいらも初めて甥に会えた。伯父さんになった訳だ。うちの親も爺さん婆さんになった訳だな。勝手に肩書きだけ付けないで欲しい。

妹と甥が実家に泊まる。おいらと義弟は、ホテルに追い出された。
静岡の、製茶工場がところどころ立つ住宅街。実は、ここは5歳までおいらが暮らした町内だ。小さなアパートの二階で暮らしていた。角部屋だった。二階に上がる鉄階段の、上がり切ったところからホテルの建設が見えた。
3歳頃の記憶だろうか。アパートの向かいには中学校。ピンクレディーが通っていた中学校。

自分の初期記憶に出てくる建物の、あの頃作られた建物の内部に初めて足を踏み入れる。当時はそこそこのグレイドだったはずのものも、35年の年月は幾多の流行り廃りの時の流れを経て、ただの巨大なコンクリートの塊となっていた。
内装は壁紙を張り替え浴室を入れ替えそこそこ奇麗だったが、如何せん建物というものの古めかしさはかえられない。廊下、隣室の水道音が響く。しか し、することの無いひとりの夜は眠ることくらいでしか埋めることが出来ない。500ml500円のホテル自販機のスーパードライで早々に眠りにつく。

朝、水シャワーを浴びる。水シャワーは言い過ぎか。25度くらいの温度。今頃なら42度くらいが適温かね。水しか出なかった。バナナを喰って、チェックアウト。朝の界隈を散歩。

5歳まで暮らしたアパートは跡形も無く、その上に建物も建って場所の特定すら難しい。耳鼻科も床屋も無くなっている。蕎麦屋があるじゃないか。懐かしい名前にひかれてゆくと、昨秋閉店の張り紙が。
中学の壁も幼い頃と変わっていた。幼い頃母に
「中学の周りを一周走って来い」
と言われ、走るのが嫌でちんたら時間を潰していたことを思い出す。
なにもかも嫌でちんたら時間を潰すところは変わっていない。

5歳児と39歳児では距離の縮尺が変わったいた。あんなに遠く感じていた小学校も病院も、歩いてすぐの場所にあった。とっても狭い世界の話だった。とっても大きく思っていたものが、時間の経過で小さくみえることはままあることだ。
自分が西方の仏さまのように巨大に思える。そんな自分も、大きな掌の上で踊っているだけなのだがね、
 

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